明治の土木
居留地土木と軍事土木
(1)はじめに
わが国近代土木の黎明は、長崎·横浜·神戸に代表される開港場をめぐってその端緒が開かれた。とりわけ、横浜におけるブラントン(Brunton)、神戸におけるハート(Hart)は、居留地土木に限定されるとはいえ、イギリス流のシビルエンジニアリング(civilengineering)あるいはパブリックワーク(publicworks)の原型を模範的に示した点で特筆すべき存在といえる。この開港場外国人居留地の民生土木には、街区割、道路舗装、歩車道分離、街路照明、街路樹をはじめ、鉄の橋、公園、下水道、上水道、ガス供給、港湾改良等の近代都市土木の諸分野がひととおり出そろっている.また、開港場への接近を容易ならしめるために沿岸各地に精力的に洋式灯台が 設置される一方で、海軍港と陸軍砲台が要所に配置されていったことも開港場の存在と無縁でなく、明治初期わが国近代土木の両義的一断面とすることができる.
(2)ブラントンとハート
横浜に限っていえば、幕末期の「攘夷」の時代、横浜に駐屯したイギリス軍の工兵隊(RoyalEngineers)が外国人居留地の民生土木に関与する例が多くあったが、政情が安定してくるにつれ横浜在住のシビルエンジニアが軍事土木技術者にとってかわっていったことが一般的に指摘できる·横浜に約9年遅れて1868年(明治元)開港した神戸では、外国人居留地参事会の顧問土木技師ハートが、測量、街区割、下水道敷設、公園造成、街路照明と植樹等いっさいを計画し、「東洋における居留地として、最もよく設計された」街をつくりあげた.横浜でも神戸とほぼ同時期に、灯台寮お雇いイギリス人技師ブラントンにより一連の横浜居留地改良計画が提示され、実測図の作成、居留地下水道の敷設、マカダム舗装、吉田橋のトラス鉄橋化がブラントンの監督下実現をみたほか、ブラントンの計画をもとに、新埋立居留地の土盛·街区割·下水道敷設、横浜公園と日本大通りの造成、堀川の拡幅と護岸整備を神奈川県が実施したのみならず、実行には移されなかったが、ブラントンは、街路照明、鉄管水道、港湾改良の諸計画にあたり、横浜の街づくりに大きな足跡を残した.このような総合性を特徴とした居留地土木は、明治20年前後 に横浜、長崎、函館等の開港場において突出した、衛生工事を中核とする都市土木に継承されていったとみることができる.
(3)灯台の築造
1866年(慶応2)幕府と英米蘭仏4国との間で締結された「改税約書」第10条「日本政府ニテ外国貿易ァ開キタル諸港=於テ船舶ノ航路ラ安全ナラシメンカ為灯台及ヒ礁標浮標ラ各所=設置スヘツ」に基づき、灯台の築造は幕府に義務づけられ、イギリスからブラントンが招聘されることになったが、緊急を要する開港場横浜近辺の観音崎、野島崎、城が島、品川の4灯台は、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設にあたっていたウェルニー指揮下のフランス人技術者によって築造された·これらの灯台には、製鉄所内で焼成された煉瓦が使用された·灯台業務はその後工部省に移され、ブラントン指揮下、国家的事業として省内でも大きな予算を得て推進された·ブラントンは、灯台寮内に修技校(工部大学校に発展)を設けて工業教育を開始し、ブラントン帰国後は、藤倉見達(1872年イギリスに留学)、石橋絢彦(1879年工部大土木卒)らに受け継がれた。
(4)海軍の土木
幕末·明治初期わが国最大の軍事工場は横須賀製鉄所(造船所)であり、その建設にはウェルニーらフランス人技術者が大挙招聘されてあたったが、土木面での最 大工事は石造乾ドックの築造であった.1867年(慶応3)着工、1871年(明治4)開渠の横須賀造船所第1号ドックは、全長122.5m、渠口幅25m、渠口深8.4mの規模を有し、わが国ドック築造の嚆矢となった·ウェルニーはブラントン同様所内に技術教育機関(費舎)を設け、そこから育った恒川柳作は、ドック築造のスペシャリストに成長し、横須賀、呉、佐世保、舞鶴の各海軍ドックのみならず、民設の石造ドック築造をも指導し、海軍土木の伝統を築いた。なお、海軍土木の頂点にたった初代海軍工務監は石黒五十二(1878年東大理土木卒)であった.
(5)陸軍の土木
わが国沿岸の灯台整備は、商船のみならず、各国軍艦の航行をも容易ならしめることになり、海軍港とともに本土防衛拠点としての砲台要塞の築城を促した。陸軍は最緊要たる東京湾防御から着手し、1879年(明治12)湾口観音崎に砲台築造の工事を起し、1881年度(明治14)からは総額245万5824円10年割の砲台建設事業が裁可されたことで全国的な展開をみ、1882年(明治15)には陸軍臨時建築署が設置されて砲台要塞の築城工事を管掌した。海軍では独自な土木技術者養成機関をもたなかったが、陸軍では工兵出身者が砲台築造の任にあたり、日清日露戦後の植民地経営では尖兵としての役割をも担い、特異な土木分野を保持し続けた.