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明治の土木

居留地土木と軍事土木

(1)はじめに

わが国近代土木の黎明は、長崎·横浜·神戸に代表される開港場をめぐってその端緒が開かれた。とりわけ、横浜におけるブラントン(Brunton)、神戸におけるハート(Hart)は、居留地土木に限定されるとはいえ、イギリス流のシビルエンジニアリング(civilengineering)あるいはパブリックワーク(publicworks)の原型を模範的に示した点で特筆すべき存在といえる。この開港場外国人居留地の民生土木には、街区割、道路舗装、歩車道分離、街路照明、街路樹をはじめ、鉄の橋、公園、下水道、上水道、ガス供給、港湾改良等の近代都市土木の諸分野がひととおり出そろっている.また、開港場への接近を容易ならしめるために沿岸各地に精力的に洋式灯台が設置される一方で、海軍港と陸軍砲台が要所に配置されていったことも開港場の存在と無縁でなく、明治初期わが国近代土木の両義的一断面とすることができる.

(2)ブラントンとハート

横浜に限っていえば、幕末期の「攘夷」の時代、横浜に駐屯したイギリス軍の工兵隊(RoyalEngineers)が外国人居留地の民生土木に関与する例が多くあったが、政情が安定してくるにつれ横浜在住のシビルエンジニアが軍事土木技術者にとってかわっていったことが一般的に指摘できる·横浜に約9年遅れて1868年(明治元)開港した神戸では、外国人居留地参事会の顧問土木技師ハートが、測量、街区割、下水道敷設、公園造成、街路照明と植樹等いっさいを計画し、「東洋における居留地として、最もよく設計された」街をつくりあげた.横浜でも神戸とほぼ同時期に、灯台寮お雇いイギリス人技師ブラントンにより一連の横浜居留地改良計画が提示され、実測図の作成、居留地下水道の敷設、マカダム舗装、吉田橋のトラス鉄橋化がブラントンの監督下実現をみたほか、ブラントンの計画をもとに、新埋立居留地の土盛·街区割·下水道敷設、横浜公園と日本大通りの造成、堀川の拡幅と護岸整備を神奈川県が実施したのみならず、実行には移されなかったが、ブラントンは、街路照明、鉄管水道、港湾改良の諸計画にあたり、横浜の街づくりに大きな足跡を残した.このような総合性を特徴とした居留地土木は、明治20年前後に横浜、長崎、函館等の開港場において突出した、衛生工事を中核とする都市土木に継承されていったとみることができる.

(3)灯台の築造

1866年(慶応2)幕府と英米蘭仏4国との間で締結された「改税約書」第10条「日本政府ニテ外国貿易ァ開キタル諸港=於テ船舶ノ航路ラ安全ナラシメンカ為灯台及ヒ礁標浮標ラ各所=設置スヘツ」に基づき、灯台の築造は幕府に義務づけられ、イギリスからブラントンが招聘されることになったが、緊急を要する開港場横浜近辺の観音崎、野島崎、城が島、品川の4灯台は、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設にあたっていたウェルニー指揮下のフランス人技術者によって築造された·これらの灯台には、製鉄所内で焼成された煉瓦が使用された·灯台業務はその後工部省に移され、ブラントン指揮下、国家的事業として省内でも大きな予算を得て推進された·ブラントンは、灯台寮内に修技校(工部大学校に発展)を設けて工業教育を開始し、ブラントン帰国後は、藤倉見達(1872年イギリスに留学)、石橋絢彦(1879年工部大土木卒)らに受け継がれた。

(4)海軍の土木

幕末·明治初期わが国最大の軍事工場は横須賀製鉄所(造船所)であり、その建設にはウェルニーらフランス人技術者が大挙招聘されてあたったが、土木面での最大工事は石造乾ドックの築造であった.1867年(慶応3)着工、1871年(明治4)開渠の横須賀造船所第1号ドックは、全長122.5m、渠口幅25m、渠口深8.4mの規模を有し、わが国ドック築造の嚆矢となった·ウェルニーはブラントン同様所内に技術教育機関(費舎)を設け、そこから育った恒川柳作は、ドック築造のスペシャリストに成長し、横須賀、呉、佐世保、舞鶴の各海軍ドックのみならず、民設の石造ドック築造をも指導し、海軍土木の伝統を築いた。なお、海軍土木の頂点にたった初代海軍工務監は石黒五十二(1878年東大理土木卒)であった.

(5)陸軍の土木

わが国沿岸の灯台整備は、商船のみならず、各国軍艦の航行をも容易ならしめることになり、海軍港とともに本土防衛拠点としての砲台要塞の築城を促した。陸軍は最緊要たる東京湾防御から着手し、1879年(明治12)湾口観音崎に砲台築造の工事を起し、1881年度(明治14)からは総額245万5824円10年割の砲台建設事業が裁可されたことで全国的な展開をみ、1882年(明治15)には陸軍臨時建築署が設置されて砲台要塞の築城工事を管掌した。海軍では独自な土木技術者養成機関をもたなかったが、陸軍では工兵出身者が砲台築造の任にあたり、日清日露戦後の植民地経営では尖兵としての役割をも担い、特異な土木分野を保持し続けた.

殖産興業と内務省土木

(1)はじめに

明治初期における内務省主導による殖産興業政策の土木面での展開は、舟運開発を目標とする河川改修(低水工事)と築港事業、および地域振興を図る疏水開削に代表される.明治新政府は、河川改修を実施するにあたり、オランダ工師団を迎え、在来河川の調査、改修計画の立案等にあたらせ、淀川上流などの砂防工事で相応の成果をあげたが、内務省土木の本質を象徴する一大工事は東北の野蒜築港であったといえよう.また、安積疏水や那須疏水の開削は、内務省勧農局系の土木として土木局系土木とは異なる流れを形成した。

(2)お雇いオランダ人工師

明治初期における河川改修は、航路を一定にし、通船運輸の利便を図るいわゆる低水工事を特徴とする.1872年(明治5)オランダからファン·ドールソ(vanDoorn)、リンドウ(Lindo)を招聘し、翌年にはチッセン(Thissen)、エッセル(Esher)、デ·レーケ(deRijke)等を雇入れ、淀川、利根川を手始めとして、河川のみならず港湾、灌漑工事の調査設計にあたらせた。とりわけ、長工師ドールンは本省にあってオランダ工師団を統轄し、デ·レーケは初期にあっては淀川の低水工事を指導して砂防ダム築造に大きな業績を遺し、ドールン帰国後は長工師として1903年(明治36)離日するまで内務省土木に大きな影響力を有した。しかし、彼らオランダ工師が自ら工事を監督したのは明治10年前半(ほぼドールン在任期間)までで、デ·レーケやムルデル(Mulder)の時代は直轄工事の助言ないしは府県土木の査定を主たる業務とし、古市公威(1876年フランスに留学)、沖野忠雄(1877年フランスに留学)ら日本人技術者にとってかわられていった。その転換期の目安はおおよそ内務省令による土木監督区署官制(1886年(明治19)7月12日)の施行とすることができよう.

(3)野蒜築港

1878年(明治11)3月内務卿大久保利通が建議した「一般殖産及華士族授産ノ儀=付伺」の中には、北上川一阿武隈川一那珂港一北浦一利根川一印旛沼–東京を結ぶ通船運輸ラインと、阿武隈川一猪苗代湖一阿賀野川一新潟港を繋ぎ、日本海と太平洋とを連絡して東北日本の振興を図る壮大な構想が提案されており、その起点的役割を担ったナショナルプロジェクトが野蒜築港であった。 野蒜築港は、オランダ人長工師ドールンの計画により1878年(明治11)7月着工され、1882年(明治15)第1期工事の竣工をみた。鳴滝川の付替えと締切り、鳴滝川河口における内港の築設、内港と北上川を結ぶ北上運河の開削、松島湾と内港とを連絡する東名運河の開削、新市街地の造成を内容とするが、築港とはいえ、内港を中核に北上川と阿武隈川を連結する内陸舟運開発に重点をおいた計画であったことがみてとれる·野蒜内港は、1884年(明治17)の台風により東堤が決潰して港口が閉塞され、外港の築設(第2期築港)をみることなく放棄された。野蒜築港の失敗は、直接的にはオランダ流の粗朶(そだ)沈床工法による水堤の構造にあり、以後の大規模築港にはコンクリート塊工法による水堤築造に移行していくが、野蒜港放棄の根本的要因は、築港技術そのものよりも、河川舟運から鉄道への運輸交通体系の転換がもたらしたものといえる。

(4)疏水土木

内務省土木は、河川改修と野蒜築港を管掌した土木局を本流とするが、明治10年代においては上下水道の衛生工事に関与した衛生局とともに、勧農局系の流れをくむ灌漑工事を扱った疏水掛も独自な技術人脈を有し内務省土木の一翼を担 った·この疏水掛系土木を代表するのが安積疏水工事であった。安積疏水は、大久保内務卿の東北振興構想の一環でもあり、内務省勧農局直轄工事として1879年(明治12)10月起業、1881年4月新設の農商務省書記局内に安積疏水掛が設置され、掛長·奈良原繁(後日本鉄道会社社長)、御用掛·南一郎平(後内務省土木局疏水掛長)のコンビにより1882年(明治15)11月1日通水式を挙行した.ドールンも1879年猪苗代湖疏水工事調査復命をなしたが、発議から完工までの責を負った技術官僚は南一郎平であった。農商務省安積疏水掛は安積の工事を終えたことで1883年(明治16)3月2日、単なる疏水掛と改称、1884年6月26日内務省土木局へ移管され、疏水掛長には南一郎平が就いた.疏水掛は、安積に続いて、那須疏水を直轄工事として1885年(明治18)9月に完成させたほか、琵琶湖疏水計画の許認可にも大きな影響力をもった·南一郎平は1886年(明治19)1月鉄道事務官に転出し疏水掛から離れたが、わが国近代疏水土木の開拓者として記憶されよう.

運輸交通の土木(工部省と大蔵省の土木)

(1)はじめに

明治初期、内務省が河川舟運の利便を図る低水工事によって運輸交通体系の整備をめざしたのに対し、工部省は海運の発展を洋式灯台の設置によって推進させる一方で、鉄道による内陸交通の体系的整備にあたった。結果は周知のとおり鉄道の勝利となり、内務省土木は低水工事から洪水防御を目的とする高水工事へと転換していき、鉄道土木は人脈のうえでは明治の土木界最大の勢力を誇った·鉄道網の発展は、全国の生産地や陸海軍の軍事拠点を連結したのみならず、主要港湾における海陸連絡設備の整備を中心にした築港工事を促し、鉄道と連絡された繋船岸壁埠頭を横浜·神戸に出現させた·この横浜·神戸の築港は、税関の拡張工事として実施され、明治後期から大正期にかけて大蔵省土木の一分流を形成した。

(2)鉄道と工部省土木

1872年(明治5)新橋·横浜間鉄道が、建築師長モレル(Morel)を始めとしたイギリス技術により開通した。これを皮切りに、大阪·神戸間〔1874年(明治7)開通〕、日本鉄道会社線の上野·熊谷間〔1883年(明治16)開通〕を起点的な核とし、あたかも東海道本線〔1890年(明治23)全通〕と東北本線(1891年全通)を背骨とするように着々と鉄道網を拡充していったことは周知の事項であろう.鉄道は、全国の主要な産業中心地や陸海軍の拠点を連結していき、大量輸送や長距離輸送の利点を高めながら、内務省土木が推進してきた河川舟運中心の内陸交通運輸にとってかわっていった。この新しい運輸交通体系の整備を主導してきたのが工部省であり、内閣鉄道局1885年(明治18)、内務省鉄道庁1890年(明治23)、通信省鉄道庁1892年(明治25)、同省鉄道局1893年(明治26)、同省鉄道作業局1897年(明治30)、鉄道国有化に伴う通信省帝国鉄道庁1907年(明治40)、内閣鉄道院1908年(明治41)、鉄道省1920年(大正9)と組織機構的な変遷をとげながら明治大正期を通じて土木の一大分野を築いた.

鉄道土木の技術的特徴は、規格化·標準化への指向によく示されている.1893年(明治26)「土木定規」、1894年「隧道定規」「鋼鈑桁定規」、1898年「建築定規」、1900年「停車場定規」に続いて同年には通信省令により「鉄道建設規定」が制定され、鉄道敷設の技術的規範が確立された.

お雇い建築師長は、モレル、ボイル(Boyle)、シェルヴィントン(Shervinton)、イングランド(England)、ホルサム(Holtham)に続きポーネル(Pownall)が6代目で最後の建築師長となったが、この間に大阪に開設された工技生養成所から輩出した日本人技術者は逢坂山隧道(1880年(明治13)竣工)を初めて自らの手で貫通させ鉄道技術自立化の第一歩とした·技術の自立化は各分野で進行したが、最後まで残ったのが鉄道橋梁であり、ポーネルが構桁·鋼鈑桁の標準設計を完成させたが、ポーネルの解雇(1896年)後は、鉄道橋の標準型はイギリス型からアメリカ技術を基準にしたものに変った。しかし、明治末年ともなると日本人による独自の標準設計が採用されるようになり、鋼材も国産品が使用されるようになっていった。

(3)繫船岸壁埠頭と大蔵省土木

鉄道網が整備されてくるにつれ、貿易港と鉄道との連絡不備が顕在化してきたのは必然であった。横浜港では、明治20年代、パーマー(Palmer)の設計監督による東北両水堤と鉄製大桟橋の築造を第1期築港工事としたが、鉄道による海陸連絡は計画されたものの実施には至らなかった。ひきつづき、海陸連絡を主眼とした繫船岸壁埠頭の築造が構想され、古市公威の基本計画により、1899年(明治32)から第2期築港工事が着手された·この工事は、内務省土木が高水工事への本格的展開期にあたったこともあって、横浜税関の拡張工事として実施され、大蔵省に臨時税関工事部が設置されて丹羽鋤彦〔1890年(明治23)帝大土木卒〕が土木課長として土木工事全般を監督した·第2期横浜築港〔18991917年(明治32大正6)〕による新港埠頭は、万トンクラスを含め13隻が同時に接岸、荷役作業ができるわが国最初の繋船岸壁埠頭になり、石造岸壁のみならず、鉄道上屋や煉瓦造保税倉庫、クレーン等が配備され、埠頭内に鉄道が引き込まれて海陸の連絡が本格的にここに達成された。この税関拡張工事は、横浜に続いて神戸港にも適用され、同じ大蔵省スタッフにより神戸新港埠頭が1922年(大正11)に完成した。これらの工事には、潜函工法や鉄筋コンクリートケーソンが大規模に導入され、港湾技術の面でも明治期築港工事の一大画期となった·

都市土木と近代水道

(1)はじめに

ブラントンやハートによって切り拓かれた居留地の民生土木は、明治10年代後半、横浜、長崎、函館等の開港場土木に引き継がれ、衛生工事を中核としながら、市区改正や港湾改良とも結びつき、都市土木の本来的な総合性が1人の土木技師のプランに沿って展開しかけたが、多くの事業は財源の壁につきあたって構想にとどまった。そのなかで唯一償還財源を確保しえた上水道のみは、全国各地の都市に普及していき、都市土木の主流を形成していった。

(2)開港場の都市土木

1887年(明治20)前後の横浜では、横浜水道(18851887年)と横浜築港(18891896年)の二大事業が相次いで実施され、横浜の街づくりの一大画期をなした·ともにイギリス陸軍工兵少将パーマーの設計監督によるものであったが、パーマーのもとで大きな役割を果したのが三田善太郎である.三田善太郎〔1878年(明治11)東大理土木卒〕は、水道·築港工事に先立って、横浜関内日本人居住区に石造下水道を敷設し、外国人居留地ではブラントン時代の陶管下水道を煉瓦造に改造したほか、パーマー以前に水道計画と築港計画を立案したことで、いわば横浜のグランドデザインを決したプラソナーとして記憶される·

長崎では、1886年(明治19)着任した吉村良策(1885年工部大土木卒)が市街溝渠の改良を手始めに、港湾改良計画に結びつく砂防ダムの築造と中島川河口の付替、市区改正事業の一環ともみなされる市街河岸矮屋の移転を実施したほか、長崎創設水道を完成させるなど長崎の都市土木全般に関与したことが知られる·また函館港では、函館創設水道工事の監督のため渡函した千種基(1880年工部大土木卒)が、横浜の三田善太郎、長崎の吉村良策に相当する。千種基は、水道工事のほか、市街に大下水を敷設するとともに、港湾改良計画にあたったといわれる。これら横浜、長崎、函館における1887年(明治20)前後の開港場改良構想は、衛生工事を契機としながらも市区改正や築港までを射程に含めた総合性を有していた点で、都市土木の原点を想起させる·

(3)市区改正と水道条例

開港場と同様、東京、大阪、京都の3府でも総合性を有した市区改正の動きがみられ、1888年(明治21)8月東京市区改正条例の公布、東京市区改正委員会での議定を経て、翌1889年東京市区改正設計の告示に至っている。この市区改正設計に終始関係した土木技術者は東京府の技師長格的存在であった原口要(1876年アメリカに留学)である·大阪では市区改正方案取調委員となった野尻武助(1879年東大理土木卒)が、京都では琵琶湖疏水を殖産興業的発案から都市土木の根幹的施設へと転換せしめた田辺朔郎(1883年工部大土木卒)が、東京の原口要と似た役割を担った·

東京市区改正設計には1890年(明治23)7月水道改良設計が追加告示されたが、これに先立って同年2月法律第9号により水道条例が公布され、上水道事業は市あるいは町村に義務づけられることになった.条例以前にもすでに近代水道として、横浜(1887年、H.S.パーマー)、函館(1889年、平井晴二郎·千種基)、長崎(1891年、吉村良策)の各創設水道があり、償還財源の見込みを有していたことで条例制定後も大阪、東京等続々と着工をみ、いわば都市土木の主流を形成したといっても過言でなかった。水道技術者の人脈のうえでは、中島鋭治(1883年東大理土木卒)と吉村良策が東西を二分する格好となった。上水道の興隆盛は、内務省衛生局系土木の大きな成果であり、都市土木の本来的総合性を上水道のみに特化したことで達成されたものであるが、その反面で総合的な都市土木にある種の跛行性をもたらしたことも否めない歴史的事実といえよう.

20世紀の土木

帝都復興事業

1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災は、東京·横浜を中心とする大都市に、壊滅的な打撃を与えた。この未曽有の災害を前にして、一部には、遷都論も唱えられたが、時の山本権兵衛内閣は、いち早く「帝都復興」の方針を明らかにした·

(1)帝都復興と事業概要

「帝都復興」とは、「旧態ァ回復スルニトドマラス、進ソデ将来ノ発展ァ図リ、以テ巷衢ノ面目ァ新ニセサルヘカラス」というように、積極的な都市改造を意味していた.

大正12年度から昭和5年度(1923~1931)までの継続事業として行われた「帝都復興事業」は、街路·運河·公園などの整備、土地区画整理、防火地区耐火建築助成などを含む広範なものであった。国の総事業費は6億4900万円で、これに、東京府や東京市·神奈川県など、公共団体の自己負担分をあわせると、総額8億4700万円に達した。「帝都」東京に重点のおかれた「帝都復興事業」は、事業費の8割以上が東京の復興にあてられた.

下町の焼失区域には、土地区画整理が行われた.施工面積は約3600haに及び、既成市街地における、このような広大な面積の土地区画整理は、諸外国でもいまだ例をみないといわれるものであった。これによって土地が生み出され、街路網·運河·公園などの整備が可能になった。

なかでも都市の基盤になる街路網の整備には、最も主眼がおかれた.52路線·延長114kmに及ぶ幹線街路(幅員22m以上)を含め、道路整備は総延長253km·道路面積約526haに達した。また、施工区域における道路率は、区画街路を含め、14.0%から26.1%に上昇した。これは、欧米なみの道路率に相当する.

街路整備に付随する橋梁工事は、一番最初に着手された.

震災復興橋梁というと、永代橋や清洲橋に代表される隅田川橋梁が有名である。これらの橋は、技術的·構造的に優れていることはもちろん、一橋一橋のデザインや群としての美しさゆえに、庶民の間で、また専門家の間で親しまれ、語りつがれてきた。しかし震災復興橋梁のデザインおよび都市景観的な配慮は、これにとどまらない.

(2)橋詰広場を結節点にした「下町の緑水ネットワーク」

震災復興事業では、橋詰広場の設置を定め、法令上初めてその大きさを決めている.橋の総数は、国の復興局と東京市によるもの双方あわせて425橋にのぼる。1つの橋に4つの橋詰広場があるので、全部で1700か所の橋詰広場が生れたことになる. 震災復興の公園事業としては、復興局のつくった隅田·浜町·錦糸の復興三大公園と、小学校に隣接してつくられた、東京市による52か所の復興小公園が知られている。これに、1700か所の橋詰広場をあわせると、東京の下町には、大(復興三大公園)·中(復興小公園)·小(橋詰広場)の公園群が巧みに配置されたことになる. また、幹線街路には街路樹が植えられて、緑のプロムナードがつくられ、橋詰広場にはまとまって植栽がなされた。大中小の公園群を結ぶ「緑のネットワーク」が形成されたのである·

明治維新政府は、「水から陸へ」と、舟運交通をやめて鉄道を中心にした貨物輸送に切り換えようとした。ところが、関東大震災によって道路網や鉄道網が寸断されたため、改めて舟運の必要性を痛感し、運河網の整備を行った。河川の拡幅や河道の改修など11河川、新設1河川、埋立1河川によって、水路網も整備された。

これら「緑のネットワーク」と「水路のネットワーク」の結節点にあたるのが、橋詰広場であった。

(3)橋の配置計画とアーバンデザイン

下町に架設された橋梁群は、都市の空間的文脈をふまえて「橋の配置計画」が決められ、デザインされている。その特徴は、以下の点にみられる.

  1. 「河川のゲイト(門)性」に着目して、舟運に便利なように、河口部の第一橋梁のデザインを1橋1橋変えた。
  2. 隅田川を境にして、右岸地域にはアーチ橋を、左岸地域にはトラス橋を多用し、橋のタイプによってマクロの地域性をだした·
  3. 河川ごと、地域ごとに橋のタイプを統一して、ミクロの地域性をだした。
  4. 皇居を中心とした橋のデザインヒエラルキーを創出し、下町の重層性を明瞭にした。
  5. 隅田川の橋は、一つとして同じデザインのものがなく、さながら「橋のギャラリー」のようであった·

橋や橋詰広場·公園などのデザインおよびそのとり合いなどについては、土木·造園·建築·芸術の大家よりなる「エ作物意匠調査委員会」(今日のデザイン検討委員会に相当)を設置して、検討している。

アーバンデザインの思想に基づいた、このような橋の配置計画は、現代においても注目すべき計画といえる。

(4)意義と問題点

震災復興事業は、実態が明らかになるにつれ、徐々にその評価が高まっている。ここでは、上述した内容との関連で、以下の3つの意義と一つの大きな問題点を指摘しておく.

土地区画整理の行われた区画には、アールデュを中心にした折衷主義の建築が建ちならび83)、復興橋梁とあいまって、新しい近代都市の景観を生み出した。それは、江戸との最終的な訣別でもあった.

新しい都市景観の出現は、復興事業の中で出されたおびただしいパソフレットや小冊子、講演会などと相まって、都市計画に対する関心をいやがうえにもひき起した。

復興事業が完了すると、実務や現場経験を積んだ技術者たちは、関係各機関や府県に散らばり、土木や都市計画技術の普及と発展に務めた。例えば、正子重三を中心とする技術者集団は、永代橋で使われたニューマチックケーソン(空気潜函)工法を駆使しながら、新潟の万代橋や大阪の十三大橋、愛知県の尾張大橋など、当時の日本の長大橋の基礎工事を相次いで手がけていった.彼らは、誰いうともなく「正子巡業団」と呼ばれた.

また、「復興様式」と呼べる特徴ある橋の形やデザインが生み出され、日本全国に普及した。各地に残る昭和初期の橋は、それを雄弁に物語っている。

事業的には、このように先進的な内容をもっていたが、都市計画的にみるとき、次のような問題点が浮びあがる.

それは、内務大臣後藤新平らの努力にもかかわらず、復興事業は、焼失区域の復興に限られたため、当時市街化の進んでいた郊外部での基盤整備が遅れてしまったことである.これらの地域は、60年後の今日、「木造アパートベルト地帯」と呼ばれる、過密居住の問題市街地を形成している。さらに深刻なことは、第二の「関東大震災」が発生したときを想定して、これらの地域が、最も危険な地域に指定されていることである85).

世界大戦と土木

1937年(昭和12)7月7日の蘆溝橋事件は、日中戦争の引金になり、わが国は戦時体制へと移行した、日中戦争は、速戦即決の戦略をとった日本にとって予想外に長期化·拡大し、国内体制の戦時化を急ぐことになった。その結果もたらされたものは、国家による経済統制と国民支配の徹底した強 化であった·

同年8月近衛内閣は、国民精神の統一を図るため、国民精神総動員の実施要綱を決定し、三大スローガン「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」をかかげた.9月には、臨時資金調整法が制定された·この法律は、軍需産業に資金を集中させるためにつくられたもので、戦争費用は、軍が自由に支出できるようになった。そのため、一般民需の土木建築は、極端に少なくなった。

翌1938年(昭和13)4月には、戦争を遂行するために、人的·物的資源のすべてを統制できる国家総動員法が制定された·

1941年(昭和16)7月、御前会議で「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」を策定し、対ン戦準備·南進のため「対米英戦をも止むなし」と決定した。1941年12月8日、日本軍は真珠湾を攻撃し、米国と英国に宣戦の布告をした。太平洋戦争の始まりである.

社会的な生産基盤を形成するとともに、戦線にいる軍隊の機動力を高め、占領後の破壊された地域を整備できる土木事業は、国策上重視された。そのため、土木界のすべて(行政界·学協会·建設業界など)が、動員された. あらゆる産業の根幹をなす電気事業の統制は、電力国家管理要綱の発表(1936年10月)以来紛糾していたが、日中戦争が始まると、まもなく実現された。1938年4月に公布された「電力管理法」「日本発送電株式会社法」が、それである.

満州や朝鮮の植民地や占領地では、鉄道·水力発電·道路·都市計画などの事業が、内地におけるよりも大規模に実施され、植民地や占領地の経営を支えるとともに、前線の兵站基地の役目も果した。

内地の土木事業は、軍事·軍需工業に集中し、生活道路·治山·治水工事などの市民生活に密着する公共土木工事は軽視され、あるいは中止された。このため、国土を荒廃させ、戦後災害の原因をつくった.

(1)行政機構

戦時体制に突入すると、内務省では、機構改革が行われた.1941年9月、土木局と計画局が廃止され、国土局と防空局が設置された.土木局の一般土木に関する事務と計画局の都市計画に関する事務は、国土局に、計画局の防空に関する事務は防空局に、それぞれ引き継がれた.

1943年11月には、軍需省が設置され、通信省に所属していた電気庁を軍需省に移して電気局とし、電力の国家管理体制を整備した·また戦時の輸送力を増強するため、同時期に運輸通信省が設置されたが、後に運輸関係を分離して、運輸省とした(1945年5月).

(2)土木学会

1940年頃までは数の少なかった、土木学会の戦時がらみの委員会も、1941年以降は、目にみえて増えてきた。

この頃までの戦時がらみの委員会として、以下のものがあげられる.

  1. 1937年4月制定の防空法との関連で先に土木学会内に設置されていた防空施設研究委員会(同2月)
  2. 防空土木委員会(1940年12月)
  3. 地下構造物における鋼材節約委員会(1937年9月)
  4. 時局対策委員会(1938年3月) 1941年以降は、次のような委員会が設置された.
  5. 防空土木施設促進委員会(1941年6月設置)
  6. 対爆調査委員会(同8月)
  7. 大東亜建設委員会(1942年3月)
  8. 建設力統制研究委員会(1943年5月)
  9. 戦時規格委員会(同6月)
  10. 飛行場急速建設論文審査委員会(1944年1月)

会長講演の記録をみても、戦争と土木との密接な関係にふれ、土木技術者の奮起を促している。例えば、1938年2月の土木学会の会長講演は、「戦争は、軍人とともにわれわれ技術者も準軍人となったつもりで銃後の戦闘に従事する覚悟がいっそう必要と思います」と力説している。そして軍事土木の研究課題として、急速施工·破壊工学の必要性を述べている。

教育界においても、顕著な膨張がみられた。工学系のなかでは、航空·造船·資源工学に特に重点がおかれた.土木科の卒業生を、1936年と1945年とで比較すると、大学で1.43倍、工業専門学校で2.53倍、総計で2.27倍に増加している。

(3)戦時中の土木業者と戦時建設団

政府は、戦争遂行上、きわめて重要な役割をもつ土木建築業界の統制を行った.

宣戦布告のその日、土木建築業の最初の統制団体として、中央に日本土木建築工業組合連合会が、地方には府県土木建築工業組合が、工業組合法に基づいて設立された。

これとは別に、陸海軍と鉄道工事については、それぞれ協力会が設けられた.

陸海軍は、建設業者と協力会をつくって、戦力増強のための協力体制を編成した。陸軍との協力機関として、軍建協力機関が、1942年2月に発足した。海軍は、これより半年ほど遅れて、海軍施設協力会をつくった.

軍関係の工事は、外地の土木工事も含め、すべてこの両会を通じて行われるとともに、両会は統制資材の配給権のすべてを掌握していた。国内の大手の施工業者は、ほとんどこの両協力会に加入していた.

そのため、先に設立した組合連合会と地方の組合の活動は、はなはだ弱くなってしまった。しかも組合の内部では、大手業者と中小業者との間に対立·分裂が起った.

1943年9月、新たに商工組合法が制定されると、これに基づき、1944年2月、中央に日本土木建築統制組合を設置し、施工実績が年間1000万円以上の総合工事業者を個人組合員として、加入させた.これ以下の業者に対しては、地域ごとに地方統制組合を設け、これを中央の統制組合に団体加入させるという方式を採用した。

しかしながら、陸海軍協力会の圧力は、依然として強く、先の統制組合の運営も意に任せない状況であった。そこで政府は、積弊排除の含みも込めて、軍需会社法を適用して、大手業者40数社の責任制を確立するとともに、国家総動員法に基づく戦時建設団令を公布し、1945年3月、戦時建設団を創設した。これに伴い、日本土木建築統制組合と陸海軍の協力会を解散させた.

しかし、戦時建設団は、機構整備がようやく完了した途端に終戦になり、何も行わぬまま、1945年10月に解散を命じられた.

その後、建設業界では、自主的な統制団体として、日本建設工業統制組合を、翌11月に設立している。

(4)強制連行

戦争が激しくなり、労働力や軍要員が不足してくると、政府は、抵抗を恐れて、それまでみあわせていた朝鮮人や中国人の労務動員計画を決定した(1939年).動員方式は、当初、「自由募集」で行われていたが、日米の開戦後は「官斡旋方式」に簡易化され、戦争末期には「徴用方式」に変えられた。しかし駆り集め方があまりに強制的であったので、一般的には「強制連行」といわれている。

これら駆り集められた朝鮮人や中国人は、炭坑労働·軍需工場·土木工事現場へと送り込まれた.資料が消却されたり、散逸しているため、正確な動員人数は、文献ごとに違いがみられるが、表-3.2のような数値も、最近出されている.これでみると、日本内地へ連れてこられた韓国人は、約72万人である·このうち土木工事現場での動員数は、約11万人で、全体の15%である.

これらの戦争に駆り出された韓国人や中国人の問題は、戦後40年をすぎた今日でも解決をみていない。

(5)技術者運動

明治以来、官庁は法科万能で、法文官僚が幅をきかせていた.土木行政もまた例外でなく、技術者は裏方として、職人扱いされていた。

1919年(大正8)頃、通信省·鉄道省の技術者が工政会を結成し、技術者の覚醒を促すとともに、社会に対して技術の重要性を訴えた。これに続いて、1920年(大正9)の12月には、宮本武之輔が中心になって、内務省の技術者を結集して、日本工人倶楽部を設立した.

1930~31年頃、工政会は、農林省·商工省の技術者を加えて日本技術協会と改名し、日本工人倶楽部もこれに合流して、技術者運動を継続した。しかし運動の効果は思うにまかせず、法科万能の体制はゆるがなかった. だが、日中戦争の進展に伴い、技術の重要性が認められ、次のような技術者運動の成果がみられた.

  1. 企画院が設置(1937年10月)されたときは、宮本武之輔がその次長に就任し、国政全般の企画にあたり、技術者のために大いに貢献した。
  2. 1938年12月、中国占領地域の行政を管掌する興亜院が設立されたとき、技術部が設けられ、宮本武之輔がその技術部長にあてられた·
  3. 大政翼賛会〔1940年(昭和15)〕ができたとき、技術部会がおかれ、それが技術重視の運動をすることになり、日本技術協会は発展的に解消した。
  4. 1941年5月、科学技術新体制確立要綱が閣議決定された。起草の中心になったのは、企画院次長の宮本武之輔で、官庁·学界·民間の技術者を組織して、要綱制定に尽力し、技術院(1942年2月)、科学技術審議会の設置 (同12月)などに結びつけた·

技術者運動の組織は、結局、戦時体制に吸収されてしまったが、この系譜は、第二次世界大戦後の全日本建設技術協会の結成(1946年12月)へと至った。

(6)敗戦と土木技術の遅れ

敗戦当時、日本の国土と社会基盤施設は、全くの荒廃状態にあった·河川·道路·港湾·鉄道·都市などは、大なり小なり戦災によって、また戦時中はなおざりにされたことによって、すこぶるみじめな状態におかれていた.荒廃した国土は、風水害に対してもろくなり、毎年襲ってきた台風による被害は、戦前の数倍に及んだ93)。

敗戦直後の土木事業の重点は、進駐軍工事を除くと、国土の保全と諸施設の復旧工事、戦時中中止していた工事の再開、および生産基盤の増強におかれた。それも、進駐軍の許可をひとつひとつ得て行わねばならなかった。 戦時中の空白期間と戦後の困窮状態によって、日本の土木技術の遅れは、英米に比べて少なくとも20~30年はある、といわれた.

終戦後特に目立ったことは、土工機械の普及であった·駐留軍工事は、重機械のお手本になった。これは後に、土木施工に革命をもたらしたといわれる佐久間ダム(1953~56年)の大型機械化施工に結実している。

戦争協力に邁進すべきであると檄をとばした土木学会の会長講演は、戦後一転して、「平和文化に貢献する」土木技術者を唱導するものになった94.そこには、土木技術の転換と土木に対する見方の変化があった.

その後今日まで、土木の課題は、高度成長、環境問題、景観問題、アメニティと、移り変ってきた·土木は、当面の社会の課題に応えるとともに、いかに人類の発展に寄与できるかという将来を見すえた高い理想をもって、土木の歴史とゆく末をみつめていく必要があろう。そこには、土木哲学というような大きなとらえ方も求められている。

エネルギー革命

18世紀にイギリスで起きた産業革命においては、蒸気機関の発明が、それを決定的なものにした·この蒸気機関の動力は、石炭の利用を前提にしており、薪から石炭へと、産業のエネルギー源が大きく転換したことを示している.これを、「第1のエネルギー革命」と呼ぶことができる·

1960年代には、エネルギー源の主役は、石炭から石油へと変った。これを、「第2のエネルギー革命」と呼んでいる。

(1)第2のエネルギー革命

電力の鬼といわれた松永安左衛門の「電力設備近代化の構想」(1955年3月)は、日本の発電方式を、それまでの「水主火従」から、「火主水従」方式へと変えた·

「水主火従」とは、発電原価の安い水力で常に電力の供給を行い、夕方などの需要のピーク時や渇水期に水が不足したときに火力発電により補給する方式のことである。

これに対し、「火主水従」は、全く逆の方式である·火力発電機の性能が急速に向上し、石炭価格が大幅に低下したことから、火力による発電原価が非常に安くなった。そのために採用されるようになった方式である.

しかし安いといわれた石炭も、豊富で低廉な石油が国際市場に登場したことから、主役を交代し、エネルギーの流体化革命が世界的に進行した.輸送性·燃焼効率性において、また生産や流通面などにおいて、流体燃料の石油は、固形燃料の石炭よりも優れていた.

わが国のエネルギー源構成も、昭和30年代後半以降、「炭主油従」から「油主炭従」に移行した。石炭鉱業審議会は、1959年12月の答申のなかで、「エネルギーの流体化は、世界的な傾向であり、現在の石炭不況が構造的なものである」ことを確認した。

このような状況下で政府は、貴重な国内資源としての石炭保護政策をとり、石炭需要喚起の対策を講じた。しかし低廉な石油に対抗することができず、しかも大気汚染が社会問題になるに及んで、石炭は、石油に対する競争力を失ってしまった。これが、世に「エネルギー革命」と呼ばれるものである.

(2)オイルショックと「第3のエネルギー革命」

1973年10月、第4次中東戦争が始まった.OPEC(石油輸出国機構)は、石油カルテルを使って、原油価格を4倍に引き上げるとともに、供給削減などの措置をとったため、石油依存度の高いわが国や、他の石油消費国は、大きな経済的混乱におちいった.世界のエネルギー事情を一変させたこの出来事は、第1次オイルショック(石油危機)として知られる.

一時期安定期をむかえたエネルギー情勢であったが、1978年12月、イラン政変が起ると、石油価格は再び急騰した。これを第2次オイルショックと呼んでいる。

これら2度にわたるオイルショックを契機に、わが国の経済は、高度成長経済から低成長経済へと大きく転換した.電気事業においても、かつての潤沢な石油に支えられた経営の安定時代は終わりを告げた.大量の石油消費に支えられた経済構造と消費構造の見直しが始まった。

第2次オイルショックの翌年に開かれた先進国首脳会議(東京サミット)では、参加7か国(カナダ、西ドイツ、フランス、イタリア、日本、イギリス、アメリカ)が、互いに協力してエネルギー問題の解決にあたらなければならないとの共通認識に達した。

東京サミットでは、次のように宣言し、あわせて各国の石油輸入制限値と輸入目標を設定した。

「最も緊急な課題は、石油消費を減少させ、他のエネルギー源の開発を促進することである」。第1次·第2次のオイルショック以来、石油代替エネルギーの開発は工業先進国の焦眉の課題になった。省石油·省エネルギーの機運とともに、公害や環境問題にも対応できる代替エネルギーを求めて、「第3のエネルギー革命」とでも呼べる新たなエネルギー源の開発が進行中である.1980年5月には、代替エネルギー法(正式名称「石油代替エネルギーの開発及び導入の促進に関する法律」)も制定されている.代替エネルギーとしては、現在、以下のものが考えられている。

  1. 核エネルギー系:原子力
  2. 化石燃料系:石炭、天然ガス、オイルシェール、タールサンド
  3. 自然エネルギー系:太陽熱、太陽光、水力、地熱、風力、海洋エネルギー、バイオマスエネルギー

このうち、原子力による発電方式は、わずかな量で大きなエネルギーを発生するので、長期的には、化石エネルギーに代るものとして期待されている。しかし、原子力発電の安全性の問題、開発に対する反対運動などがあることから、計画の遅延·中止が生じている国も多く、将来の見通しは必ずしも楽観できない、とされている。

石炭の用途も広がっている。石炭をガス化·液化することによって、公害を防止できるようになり、カロリー当りの価格は、1986年の時点で石油の約2分の1になった。 しかし石油事情が好転してきたことから、開発の速度と熱意は、鈍ってきているのが実状である.

国土計画

国土計画は、国土と資源の総合的な利用開発を目的とし、その中には、自然資源の開発と利用、レクリエーションの場と自然保護地域の配置、国土保全、人口と産業の配分、都市と農村の配置、基幹産業の配置、交通網の整備などの計画が含まれている.

国土計画へ至る歴史的な脈絡を眺めてみると、明治初年の北海道開拓政策や昭和10年代(1935~44)の東北振興などの地域政策の流れと、昭和初期の大恐慌を契機として立案された河水統制事業(1937年)に始まる河川総合開発の流れとが考えられる.

(1)戦前の国土計画

国土計画が、国家の政策として初めてとりあげられたのは、1940年に閣議決定された国土計画策定要綱である。この要綱でいう「国土」は、本州を中心とする現在の日本の領土を指すのではなかった·

「国土計画の趣旨」には、「日満支を通ずる国防国家態勢の強化を図る」とある.それは、当時日本が併合していた朝鮮·台湾·南洋諸島をはじめとして、満州国·中国全土を含めた広い範囲を「国土」として計画しようというものであった。将来的には、インド·タイなどの東南アジアも対象地域に考えていた·

その計画は、全体の上位計画にあたる「日満支計画」と国別の計画とに分かれ、日本には、「中央計画」が適用された.中央計画は、さらに「内地計画」と「外地計画」とに大別され、それぞれ地方計画の策定がうたわれている·外地には、樺太·朝鮮·関東州·台湾·南洋地方を含んでいた。

1943年には、国土計画策定要綱に基づき企画院で作成された「中央計画素案·同要項案」の国土計画構想が出された.

その内容の要点は、

  1. 総合的見地に基づく重要産業立地の適正化
  2. 人口の合理化
  3. 過大都市の疎開
  4. 農工の適正な調和、主要食糧の確保
  5. 地方計画設定方針

などで、地方別の方針を含むかなり詳細なものであった.

これらの国土計画や地方計画に強い影響を与えたのは、ナチス·ドイツの国土計画理論である。それは、国土のどの地域が占領されても、残りの地域で戦争を継続できるという自給自足的な圏域を整備することであった。これらの圏域を、機甲化部隊が速やかに移動できるようにアウトバーンで結んだ.このような計画理論を、アウタルキー的(自給自足的)な国土計画理論と呼ぶ

戦後の国土計画

敗戦直後、政府による経済計画は出されなかったが、内務省国土局は、いち早く「国土計画基本方針」を作成した.1945年9月のことである.内容は、経済再建の基本原則、各産業の指導原則、産業基盤条件の整備、文化厚生施設の配分、人口の地方分散と都市計画·地方計画の基本方針を明らかにしたものである。1946年には、「復興国土計画要綱」として、一般に公表された。これらの計画は、国土再建の方途を内容としたものであった。

戦後の日本経済を再建するには、国内資源の活用を図りながら経済的な自立を行うことが何より急務であると考えられた。このため、資源の総合開発方式として注目されたのが、1930年代にアメリカで行われたTVA(TennesseeValleyAuthority)による地域開発である·

1950年の国土総合開発法は、このような中で制定された.この法律は、国土の総合的な利用·開発·保全を適正に行うため、計画の立案·事業の調整などについて定めたもので、国土開発に関する基本法としての性格をもっている。総合開発計画は、全国·地方·都府県·特定地域の4つがつくられることになっていたが、当初は、全国総合開発計画は策定されず、特定地域総合開発計画を中心に進められた.

(3)国民所得倍増計画と全国総合開発計画

日本の高度経済成長は、1956年に始まる。この時期の大きな特徴は、経済計画から国土計画を導き、さらに地域開発·都市開発へとブレイクダウンしていく方式が確立したことである.国民総生産(GNP)の成長率を目標に掲げ、これを実現するための物的条件の計画をつくるという経済計画方式は、地域開発や都市計画の発想や方法を大きく転換させたといわれる.1957年の「新長期経済計画」、1959年の「国民所得倍増計画」がそれである.

1962年には、国土総合開発法に基づく全国総合開発計画(旧全総)が初めて策定された。これは、所得倍増計画を受けてつくられたものである。その目標は、過大都市を抑制して地域間格差の是正を図るもので、工業を重視した拠点開発の方式をとっている.全国を過密地域·整備地域·開発地域の3つに区分し、大規模な開発拠点を、東京·大阪·名古屋のような既成の大都市から離れたところに設置し、それらの間には、機能的に特化した中規模の拠点を配置するようにした。この計画に基づいて新産業都市や工業整備特別地域の指定がなされ、高度経済成長の政策が具体化された.

旧全総策定後の経済成長は著しく、人口の都市集中や地域格差が、ますます社会問題化した。このため政府は、1969年5月、第2次全国総合開発計画(新全総)を策定した。この計画の特徴は、以下の点にある.

  1. 計画達成の目標年次を設定して、昭和60年までの20か年計画にした·
  2. 全国を7ブロックに分け、当面の地域的課題のみならず、情報化社会に対応した国土利用を提案した。
  3. 拠点開発方式をさらに拡充させた大規模開発プロジェクト方式·
  4. 地域開発の基礎単位として全国を100~200地区に分けた広域生活圏の設定.

折から公害など環境問題がクローズアップされ、新全総への批判が高まる中、1972年7月、日本列島改造論が発表された.しかし、この発表とともに、地価が高騰し、石油ショックによる混乱が生じ、さらに田中内閣が退陣して、この構想は立ち消えとなった。

(4)三全総から四全総へ

新全総はこのように、社会情勢にそぐわなくなったため、政府は全面的な手直しを迫られ、1977年に第3次全国総合開発計画(三全総)を策定した。それまでの工業開発優先主義をやめて、「人間と自然との調和のとれた健康で文化的な居住環境づくり」を基本目標にすえた、計画の特徴は、新全総の広域生活圏に代って全国を200~300の定住圏に分け、地方の振興を図りながら、新しい生活圏を確立する定住構想の提案であった.

しかし、出生率の低下による人口動態の変化、予想以上の高齢化の進展とサービス産業の成長などにより、地方への工場移転は予定したほどには進まなかった。さらに21世紀を展望したとき、国際化·情報化·高齢化の進展など、社会経済の大きな変化が予想された。このため政府は、1983年10月、三全総を1985年で打ち切り、第4次全国総合開発計画を策定することを決定した.

1987年に閣議決定された第4次全国総合開発計画(四全総)は、21世紀へ向けた国土づくりの指針といわれる.四全総では、「多極分散都市型国土の形成」を基本目標にしている。これは、人口·産業をはじめ、情報·研究開発·国際金融といった中枢管理機能の東京への一極集中を是正するため、東京以外の地方にも高度な都市機能を備えた「極」を形成していこうとするものである.施策としては、工業の分散·再配置の推進、政府機関の移転再配置、文化·研究施設の東京以外への立地、事務所の地方都市への誘導などが考えられている.これらの極となる都市と東京、あるいはブロック内外の地域との間を結ぶ交流ネットワークを整備して、開発を推進するという.

さらに四全総では、本格的な国際化を迎える中で、国際金融·国際情報などの世界的な中枢都市の一つとして東京を位置づけている.

これらの計画が本当に国土の均衡ある発展を導くものであるのか、特に東京を国際都市として位置づけたことは、新たな地域間格差を生じさせると同時に、再開発により都心部から、今まで住んでいた住民を追い出すことになるのではないか、との批判も出されている.

都市改造と高速交通

昭和30年代に始まる高度経済成長は、産業構造をそれまでの第一次産業中心から、第二次·第三次産業へと転換させた。人口は、職場のある大都市に集中した。大都市では、住宅が不足し、通勤·通学ラッシュの激化、急激なモータリゼーションによる道路交通麻痺などが、あちこちでみられるようになった.

(1)都市開発

このような都市問題の解決と高度経済成長を支える物的基盤づくりをめざした都市開発が、この時期、押し進められた.法律·制度が整備されるとともに、さまざまな事業主体もつくられた.

土地区画整理法(1954年)は、「都市計画の母」といわれた戦前の土地区画整理制度を、単独法にしたもので、面的市街地整備の中心になる法律である·新住宅市街地開発法(1963年)は、大規模な住宅都市開発の新手法を生み出した法律として知られている。

これらの制度を利用して、きわめて大規模な事業が行われた。主なものとして、次のようなものがあげられる(表-3.4).

新都市開発では、新住宅市街地開発法を制定するきっかけにもなった大阪府企業局による千里ニュータウン、新住宅市街地開発事業と土地区画整理事業を併用した多摩ニュータウソと筑波研究学園都市などである.

都市再開発では、淀橋の浄水場跡地を利用した新宿副都心、第1号の超高層ビルとして知られる霞ヶ関の特定街区、市街地改造法により駅前広場建設と複合用途ビルの建設を行った大阪駅前市街地改造事業と新橋駅前市街地改造事業などである.

(2)地下鉄

ラッシュ時の交通混雑を解消するため、私鉄では、車両の増結や大型化を計り、プラットフォームを改良した。

しかしこのような対応策では、急増する通勤·通学者をさばくことができなかった.都市の交通難を基本的に解決するため、1956年には、地下鉄が郊外私鉄との相互乗入れ直通運転を行うことや都営地下鉄の建設が決定された.

1959年、オリンピック東京大会の開催が決った.街路の拡張や高速道路の建設などが、急ピッチで行われることになった·地下鉄網もそれまでに至急整備しなければならなかった.市電網は、地下鉄にとってかわられ、高速性を確保するため、地下鉄の駅間距離は、都市内でもかつての市電と比べて、長くなっている.

(3)ニュータウンと鉄道

生活水準が向上し、生活様式が多様化するにつれ、住環境の質的な面も考慮して住宅不足を解消することが必要になってきた.良質な住環境を備えた住宅地の開発には、広大な土地を必要とする.既存の鉄道あるいは道路周辺は、すでに市街化されているので、大規模ニュータウンは、いきおいこれら交通ルートから離れたところに立地せざるをえなくなり、独自の交通機関が必要になった。

そのため、開発と並行して、鉄道や新交通システムなどの公共交通機関をニュータウンの建設にあわせて新設する例が少なくない。千里ニュータウンの北大阪急行、泉北ニュータウンの泉北高速鉄道、多摩田園都市の東急田園都市線、千葉ニュータウンの北総開発鉄道·公団鉄道などである。

(4)首都高速道路

都心部の交通混雑を解消するためにつくられた高速道路は、以下のような特徴をもっていた(1957年7月20日の建設省の高速道路に関する基本方針).

  1. 高速道路は、主として東京周辺部から都心部に至る自動車交通を円滑にするためのものであること
  2. 高速道路は、一般街路と分離し、平面交差のない自動車専用の高速道路であること
  3. 部分的には、高速自動車国道の一部を構成するものとし、可能なかぎり有料道路とすること

1962年12月、首都高速道路が初めて供用されてから、現在(1987年9月)で201kmになる.そのルートは、幹線道路の上や、河川空間を利用しているので、都市景観を大きく変えてしまった.

(5)都市間高速道路

1957年4月、国土全体の開発を目的にした国土開発縦貫自動車道建設法が制定され、あわせて、高速自動車国道法も制定された.

1963年7月には、わが国初めての高速道路として尼崎~栗東間の名神高速道路71.1kmが完成した·

1969年5月には、東名高速道路が全線開通し、今では、青森から熊本の八代までノンストップで移動できるまでに高速道路網が広がった。全延長は4357kmに及ぶ.将来的には、7600kmが予定されている。

これら高速道路の建設は、我々の生活に大きな影響を及ぼし始めている。

直接的には、建設業をはじめとする関連産業に、大きな経済的波及効果をもたらした.

高速道路のネットワークは、鉄道を軸にして展開されてきた明治以来の国土利用を大きく変えている。

東名·名神高速道路の開通は、静岡県や滋賀県がたどっていた過疎化の趨勢をストップさせ、インターチェンジ周辺に、各種流通センターや工業施設が立ち始めた。

中国縦貫自動車道の周辺には、モータリゼーションに対応する郊外型スーパーマーケットが相次いで開業し、過疎化していた人口が増加に転じた.

臨海工業地帯に立地していた重化学工業に代って新たに台頭し始めたのが、内陸工業地帯である.高度加工型の機械·金属工業や高付加価値型の雑貨生産、エレクトロニクスやバイオテクノロジーを主流にする産業である·

(6)新幹線

高速道路の建設に対して、新幹線の建設は、批判的·悲観的にとらえる人が多かった、年々増大するモータリゼーショソをみて、「鉄道と船に代り、自動車と航空機の時代になる」といわれた.

しかし、新幹線の成功は、これらの批判が、とりこし苦労であったことを証明した。同時に新しい課題として、新幹線を軸にした日本列島の総合的な交通体系の必要性を考えさせることになった。

東海道新幹線の開通(1964年10月)は、国土の構造を大きく変えた·開通以前、東京·名古屋·大阪は、それぞれ別別の都市圏域を形成していた.ところが開通後、これら3つの都市圏は、日帰り圏になり、一つの巨大な都市圏域を形成することになった.そればかりでなく、3大都市圏の中間に位置する人口10万人以上の地方中核都市もその中に包含されて、「巨帯都市」といわれる東海道メガロポリスを形成することになったのである。

この結果、大阪·名古屋の中枢管理機能は、東京へ吸収され、大阪·名古屋は、地方的中枢管理機能を果す都市へと再編成されることになった.

都市改造と高速交通のもたらした影響は、このような肯定的な面だけでなく、いくつかの弊害ももたらした.

新幹線の沿線では騒音に、高速道路沿線では、騒音と排気ガスに悩まされている。またこれらの構造物は、地域を分断している·建設時は、自然と埋蔵文化財を破壊し、景観破壊といわれるような状況もつくった.

高度経済成長後の日本経済の着実な進展と円高および地下鉄·高速道路·新幹線に支えられた高速交通社会は、ますます、東京への一極集中をもたらし、都市問題を激化させ、都市の居住性を悪化させている.また他都市からは、「東京への資本と情報の集中である」と非難され、遷都論が出されている.

しかし、好むと好まざるとにかかわらず、日本の首都東京から、国際都市東京へ向けて、新たな都市改造が行われ、変貌しようとしている。

環境問題

環境問題は、広範多岐にわたっている.高度経済成長のレールにのり始めた1960年代は、日本のあちこちで環境問題が噴出し、住民運動がわき起った。しかし当時は、あまりにも公害問題が激しかったので、環境問題といえば、まず第に「公害」が意識された。やがて人々は、公害問題に取り組む中から環境の重要性に気づき始めた.

1970年代には、環境問題が大きなテーマになり、自然保護や歴史的町並の保存と再生の運動が、各地で活発になった.環境を守る思想として、イギリスのアメニティの思想が紹介された.

1970年代の後半になると、アメニティの思想は、それまでの「保全の思想」から「創造の思想」へと、その意味内容を広げた。行政当局も、アメニティ行政や景観行政に取り組み始めた·

このような環境観の拡大が、今日、土木の世界で、構造物の美や景観との調和が論じられる大きな背景になっている、といえよう.

前述したように環境問題は、多種多様で、いろいろな側面がある.ここでは、それを、例示的に眺めてみよう.

(1)時間的なプロセスにかかわる環境問題

a.工事にともなう環境問題

1工事中の環境問題

土木工事に、騒音や振動はつきものである.環境庁のまとめた資料によると、建設作業中の苦情は、次のようになっている105).

典型7公害の苦情件数を発生源別でみると、建設作業は全体の1割強であるが、振動と騒音については、建設作業にかかわるものが多い·振動だけでみると、建設作業中の苦情が一番多く、4割を占めている。また騒音の苦情件数は、工場·事業所(4割強)に続いて、2位であり、1割5分である.これらの苦情件数は、年々増加の傾向にある·

このほか、工事中のほこりやゴミの問題もあげられる.最近は改善されてきたようだが、一時期、薬液注入による地盤の安定工法も、地下水を汚染することで問題になった。

2建設残土の処理

建設残土の処分地の確保について、大都市の自治体は、みな頭を悩ましている.

処分地が遠いため、建設残土を途中で捨てたりするケースは、マスコミなどで、よく紹介されている。また、建設残土を谷あいに捨てて、谷を荒し、河川を汚した例は、富士山の道路工事などにみられた.

3骨材や石材などの建設材料の採取にともなう環境問題

奥多摩の天祖山は、石灰岩の岩山であるため、セメントの材料として山が削られてきた。そのため、山容は変り、自然破壊にもなっている。

骨材についても、川砂利から山砂利に代ったため、同じような問題が起きている。

b.維持管理上の環境問題

道路の凹凸による車両通行時の振動の発生、汚水処理場の故障による水質汚濁、チェルノブイリ原子力発電所の放射能の漏洩問題などは、維持管理上の問題例と考えられる.また、金属の錆や汚れは、構造物を傷めるとともに、見映えも悪くしている。

(2)構造物にかかわる環境問題

a.土木構造物の存在による一次的環境問題

1埋立地

海につくられる埋立地は、海岸線や海浜環境の破壊と喪失を招き、埋立地の区画は、絶壁型の直線でつくられるため、単調な景観をつくりやすい.また、埋立地の多くは、企業などの占有地になってしまうので、かつて一般の人々の散策できた海浜は、その消滅とともに人の出入りが禁止される.近世イギリスの農地で起きたエンクロージャーの現代版といえる·兵庫県高砂市の住民が考えだした環境権の一つである「入浜権」は、まさしくこの問題を提起している。

2土地造成と高速道路

丘陵部の土地造成や高速道路の建設は、埋蔵文化財の喪失と破壊、歴史的環境の破壊、自然の生態系の破壊、景観問題などを起しがちである.

眺望阻害も問題になっている.構造物の存在が眺めや見通しを阻害するのである.高速道路の建設によって、山が見えなくなるという問題事例も発生している·国立市の歩道橋問題では、歩道橋の設置が街路景観のヴィスタを奪うという問題提起がなされた.

幅の広い幹線道路の建設は、拡幅であれ、新設であれ、コミュニティの破壊につながる.商店街であれば、買物客は、片側の商店街にしか行かなくなるので、商店街の売上は伸びなくなる.荒川放水路·新中川などの放水路の建設も、多くの農村コミュニティを分断した.

富士山での道路建設は、土地が痩せているところに道路を通したので、いまだに樹木が復元していない.

最近大きな問題になっているのは、秋田と青森との間にある白神山地を通るスーパー林道である.白神山地には、日本で唯一残された大規模な自然ブナ林があり、スーパー林道は、その真ん中を通る形になっている。

3 ダム

ダム建設は、大きな貯水池を背後にもつため、その影響圏は大きい。まず、湛水地域の村落共同体とその歴史を水没させ、周辺環境と景観を大きく変える.河川環境も大きく変る.流域にたくさんのダムの設置されている大井川では、大水のとき以外、下流に水はほとんど流れなくなっている。アスワンハイダムのように、巨大な湛水湖ができて、水面からの蒸発量が多くなったため、地域の気候を変えてしまうほどの影響をもたらすこともある.

b.土木施設の利用がひき起す二次的環境問題

二次的環境問題の典型例は、(高速)道路·新幹線鉄道·空港施設のような交通施設にみられる.

交通機関において、土木構造物や施設を利用することによってひき起される環境問題である.道路の場合は、排気ガス·騒音·振動などの問題が指摘されている·道路側で対応できる対策として、遮音壁の設置などであり、土地利用上の工夫などが行われているが、現在一番の問題は、車の排気ガスに含まれている窒素酸化物(NOm)対策である.

高速道路に設置された遮音壁は、今度は別の問題を生じた.それは、道路内外の景観問題である·ドライバーにとっては、外の景色が見えず、溝の中を通っているようで味気ない、また歩行者にとっても長い板が連なって見苦しい、という苦情が出されている。

新幹線や飛行機では、騒音·振動·電波障害などが問題になっている。

埋立地には、製鉄·石油コンビナートなどの装置型産業が多く立地し、それらの施設から出される排煙·煤塵などが、公害問題をひき起した.

これらの問題は、健康被害がでるほど深刻で、裁判闘争も行われている。

c.複合的な環境問題

都市の砂漠化現象やヒートアイランド現象には、土木施設の関係する事柄が多い。

共同溝や地下鉄の工事は、地下水脈を切断するとともに、工事中、地下水を汲み上げるので、地下水位を下げている。

また、路面のアスファルト化は、大都市内では細街路まで進んだので、雨水が地下にしみこむ場所がなくなり、土壌の乾燥化が進んでいる。

河川は暗渠化され、森や林のようなまとまった緑地が失われてきたので、空気の冷やされる場所も少なくなった。そのため、都心部には、郊外部より温度の高い大気の塊が発生し、ヒートアイランド現象を起している。

これが原因で、都市の局地的な豪雨をひき起す、との研究も報告されている。

身体に及ぼす影響も無視できない·のどの粘膜には、大気の適当な湿り気が必要であるが、大気が乾いてきたので、都市住民は、風邪をひきやすくなっている。またかかると、なおりにくく、夏風邪も増えている。

環境は、一度壊してしまうと再生不可能、ないしは復元に時間がかかる。それゆえ、環境との摩擦をなるべく少なくし、環境に負荷を与えない工夫や努力が必要といえる.土木工事が大規模化しているとき、エコシステムとしての、またはエコシステムの中の土木構造物のあり方を考えることが、ますます大切になっている。

一度つくると、50年や100年もつ土木構造物は、いわば、第二の環境を創造しているといえる。それゆえ、住んでみてよかったといわれるような人間感覚にあった土木構造物をつくることが大切といえよう.

そのためには、計画の再検討を含めた十全なる検討、基本構想·基本計画·基本設計·実施設計などの計画プロセスの重視、施工と維持管理の工夫、住民参加の問題、形やデザインへの配慮、歴史性の継承と蓄積など、主にソフト面での検討課題が多い。