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産業革命と近代土木

材料革命と技術革新

(1)製鉄法の進歩

古代から、中国やインドは鉄鋼石を溶融させて鋳鉄に製造したものを精錬脱炭して錬鉄に変える優れた製鉄技術をもっており、さらに炭素の多い鋳鉄と炭素の少ない錬鉄を融合させて鋼を製造する方法ももっていたが、ヨーロッパで鉄鋼石→鋳鉄(銑鉄)→錬鉄の2段階法(間接法)が行われるようになったのは高炉が誕生した15世紀頃からである.高炉法が初めて採用された地域はライン川の支流域で、北欧農業が二圃式から三圃式に変化したことによる農機具需要の増大と、火薬と大砲の出現による戦争形態の変化に起因する軍需、そしてそれらを促進したハンザ都市同盟による鉄貿易の拡大などが原因と考えられている。また、16世紀にはイタリアのビリングッチョ(V.Biringuccio、1480~1538)により錬鉄·鋳鉄の共融解法に相当する製鉄法が実施され、以後ヨーロッパの精錬技術はドイツに発した高炉による鋳造と間接法を軸に世界の製鉄技術をリードする水準に達することになった。

しかし、高炉法の時代になって急速に鉄の生産量が増大した結果、森林経済が深刻な事態に至ってしまった。当時のヨーロッパは、燃料のすべてを木材あるいは木炭に依存していたため、極端に木炭を消費する高炉による鉄の大量生産は森林の徹底的な破壊をもたらしたのである。それでも、森林資源が豊富なスウェーデンとロシアは木炭による製鉄業を発展させることができ、両国は17世紀から18世紀にかけて鉄輸出国の双璧となった。しかし、イギリスではすでに16世紀のエリザベス朝時代に一部の地域へ森林伐採禁止令を出すほどの事態に至っていた。このため木炭の価格は高騰し、18世紀のイギリスは鉄の供給の半分を輸入に依存するまでになり、国内の製鉄業は伸び悩んだ.したがって、木炭に代わる燃料の開発が真剣に模索された。この問題を解決したのが、18世紀初頭にイングランド西部のセヴァーン(Severn)川上流でコールブルックデール(Coalbrookdale)製鉄所を経営したダービー(Darby)1世(16781717)で、彼は1709年に石炭をコークスに変え高炉の燃料とすることに成功した.彼の製鉄事業は息子のダービー2世(171163)、さらに孫の同3世(175089)へと継承されたが、精錬度を高めるためには石灰石を用いた高塩基スラグにより脱硫を行わねばならず、そのためには、より高温で溶融させなければならなかった。それまでの人力や馬力によるふいご送風では不可能な温度を可能にしたのがワット(Watt、17361819)の発明した蒸気機関とシリンダー送風機であった·産業革命のはじまりである。これによりいっそうの大量生産が可能になった鉄は、土木材料としてはまず橋梁に使用され、鉄道の発展に多大の貢献をした.

(2)コンクリートの改良

セメント状の結合材は、すでに紀元前にローマ人たちが石造構造物の強化と耐水性の向上のために用いた例があるが、それらは石灰と火山灰を混合した気硬性セメントであった·高強度の構造材として改良されるようになったのは18世紀なかばからである·イギリスのスミートン(Smeaton、1724~1792)はエディストーン(Eddystone)灯台の建設に従事した際に粘士を含有するポートランド(Portland)島産の石灰石を使用し、これを焼成して水硬性石灰を製造した·またパーカー(Parker)はテムズ河口の粘土質石灰岩(セメント岩)を窯の中で焼いたものを粉末にして水に混ぜると迅速に硬化することを発見し、これをローマンセメント(RomanCe-ment)と呼び、1796年に特許を得た.同様の天然岩石を産出する地域が多いことからパーカーの方法はヨーロッパ各国に広まり、天然セメントが盛んに製造されたが、成分の変動が大きいため信頼性が低いという難点があった.1824年にイギリスのアスプディン(Aspdin)が粘土と石灰石の混合割合を調整して焼成する方法を発明し、近代的セメントが誕生した、このセメントが硬化したものがポートランド島産の石灰石と色がよく似ていたため、ポルトランドセメント(Port-landCement)と命名されたといわれている.その後イギリスのジョンソン(Johnson)が成分と強度に関する基礎研究を重ね、19世紀半ばにはほぼ今日のものに近いポルトランドセメントができあがった.1848年にはフランスで、1850年にはドイツで、1871年にはアメリカでそれぞれ工業生産が始まり、日本でも1875年に深川の官営工場で製造が開始されている.

セメントコンクリートは石材のように圧縮に強く形状が自由につくれるという長所が買われ、道路舗装材料としても用いられた.砕石を用いた舗装工法は1764年にフランスのトレザゲ(Tresaguet)が開発したものがあり、その後、1805年にイギリスのテルフォード(Telford、17571834)が割石を基層に用いる形に改良した。また1815年にマカダム(McAdam、17561836)が700マイルをこえるターンパイクの建設において表層を不透水性の水締砕石で覆うマカダム工法を開発し、近代的道路舗装工法の歴史を切り開いた。この舗装は馬車交通の普及に大きな役割を果したが、やがて自動車の出現により他の舗装工法へ切り替えられていった·マカダム舗装に石灰モルタルを注入する工法の特許は1827年にイギリスで取られ、1865年に最初のコンクリート舗装道路が出現した.アスファルト舗装道路は1870年頃ロンドンに登場している·

コンクリートはもろいうえに引っ張りに弱いという難点がある·この点を改善しようとした最初の鉄筋コンクリート製品は1850年頃にフランスのランボーがつくったボートであるといわれる.1867年フランスの庭師モニエ(Monier、18231906)は金網にコンクリートを流し込んで耐久性を増すことを考案し特許をとった。彼は1877年に鉄筋コンクリート枕木の特許も取得し、1880年には鉄筋コンクリート造耐震家屋の試作もしている。その後ドイツのワイスやフランスのアネビク達が構造計算手法を考案し、橋梁への応用の道を開いた、ヨーロッパの景観を飾ってきた石造アーチ橋の歴史も19世紀末にはセジュルヌの手により極限に到達しており、スイスのマイヤール(Maillard、18721940)はコンクリートアーチ橋の形態的可能性を追求し、フランスのフレシネはアメリカのジャクソンやドイツのディーリンク等が考案したプレストレストコンクリート構造を1928年実用化する等、20世紀に入り新しい技術開発の道が次々に開かれていった。

近代土木工学の成立

(1)軍事土木からの脱却

西欧における近代土木工学は、近世フランスの軍事技術の中に芽生え、やがてそこから分離する過程で科学的性格を強めながら体系化されていった.ルイ14世治世下の1675年、築城家で軍人でもあったヴォーバン(deVauban、1637~1707)の提唱により、フランス軍隊内に軍事技術者集団としCLEX(CorpsdesIngénieursduGénieMilitaire)»創設された.組織化された技術者群としては近世最初のものだった·1716年には橋梁道路工兵隊(CorpsdesIngénieursdesPontsetChaussees)が設立された.これらの中でフランス軍工兵士官(génieofficier)は数学に基礎をおく近代科学的体系のもとに専門技術教育を受けた。彼らは軍事的工事だけでなく港湾·運河·橋梁·道路等の非軍事的な民政的(civilian)公共事業も手がけ、ここから土木工学に相当するgéniecivil(civilengineering)という語が生れ、やがて独立した職能領域として認知されるようになった.したがってフランス軍工兵士官は近代土木技術者(civilengineer)の元祖ということができる.

こうした背景により1715年にはフランス国内の橋梁と道路は橋梁道路局長官(Directeur-GeneraledesPontsetChaussees)の監督下におかれることとなり、この部局において技術者が実務に従事するようになった。しかし、建設事業の増加とともに専門技術者の養成が急務となり、1747年にトリュデース(Trudaine)により道路橋梁学校(EcoledesPontsetChaussees)が専門土木技術者教育機関として設立され、初代校長にはペロネ(Perronet、1708~1794)が就任した·40歳にして指導的立場に立ったペロネは、ヌイイ(Neuilly)橋、コンコルド(Concorde)橋、マント(Mante)橋、オルレアン(Orleans)橋等の数多くの橋梁や、ブルゴーニュ(Bourgogne)運河等の建設に携わるとともに、材料試験に関しても多大な成果を挙げ、また多くの後継者を育てた。

(2)学問としての体系化

このような近代的土木工学教育が可能になった背景に、17世紀から18世紀にかけてフランスの知識人達により数学やそれを基礎とした物理学、特に力学と水理学の体系化が進展したことが挙げられる.1965年にはラ·イール(deLaHire、16401718)が「力学概論(TraitedeMécanique)」を著し、初めてアーチの解析に連力図を用いていた。また1729年にベリドール(deBelidor、16931761)が著した「技術者の科学(LaSciencedesIngenieurs)」は、今日の「土木工学ハンドブック」に相当する内容のものであり、黎明期の近代技術の集大成であると同時に土木工学の学問的成立を宣言した記念碑的な書物である。さらにベリドールは1737年から1739年にかけて全4巻からなる「水工学(Architec-turehydraulique)」を著している·この書物の表題を見てもわかるように、ヴィトルヴィウスの「建築十書」以来の伝統を受け継いで建築の工学技術的部分も土木技術として考えられていた。

18世紀には今日の土木技術の基礎的体系が勤勉な土木工学者たちによって形づくられた.ペロネの弟子のゴーシー(Gauthey、17321806)は石材の圧縮試験を行い、材料強度の検討を行った。デュ·ビュア(DuBuat、17341809)は水力水深の概念を導入し、シェジー(Chezy、17181798)は開水路の水流に関する等流理論の基礎をまとめた。こうした土木工学の個別領域の進歩に加えて、クーロン(Coulomb、17361806)は、梁の曲げ、せん断応力、土圧、摩擦、応力ーひずみ等、応用力学のあらゆる分野に足跡を残し、力学を構造工学上の諸問題に適用する道を開いて土木工学の理論化に画期的な進歩をもたらした。1773年に発表された「国外研究論文集(Mémoiresdessavantsétrangers)」は構造工学史上を画する成果といわれ、クーロンは近代土木界最大の工学者に位置づけられている。

(3)エコール·ポリテクニクの設立

フランス革命のさなかの1794年、革命政府の海軍大臣で数学者でもあったモンジュ(Monge、17461818)を中心として、エコール·ポリテクニク(EcolePolytechnique、理工科学校)がパリに創設された·最初の設立法令によれば「数学および物理学を必要とする職業を無料で学ばしめる」ために、旧体制下の道路橋梁学校や工兵隊を母体としつつ革命政権が推進して誕生したものである.当初は公共事業中央学校(EcoleCentraledesTravauxPublic)として開校し、1895年に改称した。当時のフランスを代表する一流科学者たちが教授陣に迎えられ、各地から学力試験により選抜されて入学した若者たちに厳しい教育をした。従来の技術教育が実際的な知識の伝授に留まっていたのに対して、エコール·ポリテクニクでは工学の基礎学問としての数学·物理学·化学等を重視するとともに、モンジュが集大成した図学の履修にも多くの時間を当てた·歴代政府の強力な支援を受けて、その斬新な教育は著しい成果を上げ、数多くの優秀な科学者や技術者を輩出した·ラグランジュ(Lagrange、17361813)、ナヴィエ(Navier、17851836)、ポアソン(Poisson、17811840)、ポンスレー(Poncelet、1788~1867)らは皆ここの出身である.土木工学のみならず19世紀の工学技術全般に多大の影響を及ぼしたエコール·ポリテクニクの教育体制は、高等教育レベルにおける科学技術教育のモデルとみなされるようになり、諸外国の教育制度に深い影響を与えた.この工学教育専門機関の設立により西欧の近代工学技術は確立されたということができる.

(4)イギリス土木学会の成立

フランスにおいて土木技術が軍事土木から近代科学に基礎をおく体系的な土木工学へ発展していった18世紀半ば過ぎから19世紀前半にかけて、イギリスでは猛烈な勢いで産業革命が進行していた·イギリスの土木技術は産業基盤の形成をめざして港湾·灯台·運河·道路·橋梁等の交通土木事業に重点をおきつつ発達し、工業化社会の要請に応えるための実用工学の性格を強くもっていた。特に19世紀初頭までは舟運が盛んであったため、1757年のサンキー·ブルック(San-key Brook)運河、1761年のブリッジウォーター(Bridge-water)運河、1822年のカレドニア(Caledonia)運河、1827年のバークレー·グロースター(BerkeleyGloucester)運河等の建設が行われ、イギリス中に運河網が張り巡らされた。大英帝国の連邦諸国や植民地との貿易のために港湾建設事業も盛んで、1759年にエディストーン灯台が完成、1848年にはプリマス(Plymouth)港の防波堤が完成した。またマカダムがそれまでの石畳の舗装に代えて簡便なマカダム工法を考案して舗装道路の建設が急速に進んだほか、1830年代に入ってからは熱狂的な鉄道建設の時代となり、トンネルや橋梁の建設技術は長足の進歩をとげた。

このような背景のもとで、土木技術者の社会的地位向上をめざして1771年にスミートンを中心に土木技術者協会(TheSocietyofCivilEngineers$//tTheSmeatonianSo-ciety)が結成された.スミートソは自ら土木技術者(civilengineer)と名乗った最初のイギリス人であった。

イギリス土木界が近代技術を駆使したさまざまの大型土木事業で活気づいていたさなかの1818年、イギリス土木学会(TheInstitutionofCivilEngineers)が設立された.1828年に学会憲章を起草したトレッドゴールド(Tredgold、1788~1829)は、土木技術を次のように定義している。「土木技術(civilengineering)とは、国内交易のための道路·橋梁·水路橋·運河·河川航路·内港の建設、国際貿易のための港湾·突堤·防波堤·灯台の建設、人工動力による航行、機械の建設および利用、都市下水道の建設によって、国際貿易·国内交易のための国内の生産交通手段を形成し、自然界の大いなる資源を人間のために役立つように制御する技術である」。

鉄道の時代

(1)鉄道と近代国家

19世紀は鉄道の時代といわれる.鉄道は産業革命の先鞭を切ったイギリスに始まり、19世紀中頃には西欧の全域にいきわたるとともにアメリカ大陸でも急速に普及した.19世紀から20世紀初頭にかけて、鉄道は陸上交通機関としては最速の近代的輸送手段であったため、鉄道路線網は近代産業発展のために不可欠の社会資本として整備されていった.近代国家の建設をめざしていた当時の列強諸国は、国土発展の基盤となる近代産業育成のために、国家的プロジェクトとして鉄道建設の推進に努めた·鉄道は産業革命の進展の産物であると同時に、さらに産業革命の進行に不可欠な原料や製品の安価·迅速·大量な輸送を可能にする、近代工業化社会のシンボル的機能を担っていた。

(2)蒸気機関による黎明期

軌道を用いた輸送路としては、16世紀頃ドイッ中部のハルツ鉱山で初めて採用された木製軌道の例がある·18世紀には鉱山の搬出入線路には鉄製のレールが用いられるようになり、フランジのついた車輪による脱線防止と分岐·合流装置も開発され、軌道システムはほぼ確立されていた。しかしその動力の大半は人力や馬力に頼っており、輸送力向上のために動力源の革新が必要であった.1804年イギリスでトレヴィシック(Trevithic)が歯車伝達式の蒸気機関車の試験走行を行い、またマードック(Murdock)やブレソキソソップ(Blenkinsop)らも蒸気機関車の改良に努めたが、いずれも実用化には至らなかった·スティブソソン(Stephenson、17811848)は、馬に牽引させていた石炭運搬用トロッコの動力源に、ワットの蒸気機関のピストン運動を動輪に回転運動として伝達するクランクロッド方式を思いつき、1818年自ら発明した蒸気機関車の試運転に成功した.1825年には彼の実用機関車アクティブ号(後にロコモーション号と改名)がストックトンダーリントン(Stockton~Darlington)間を走り、その3年後に同区間の路線は世界最初の公共貨物鉄道として開通した·当初は火力を乗せた蒸気機関車が危険視され、旅客の方は馬車鉄道方式だった.旅客鉄道の開業は1830年に開通したリヴァプール·マンチェスター(Liverpool-Manchester)鉄道が最初で、スティブソソン製作の蒸気機関車ロケット号が約50kmの区間を4時間半かかって走行した·この区間は貿易港リヴァプールと産業革命の中心的工業都市マンチェスターを結ぶものであり、この路線開通によりイギリスの産業革命はいっそう促進されることになった·

(3)鉄道狂(railwaymania)時代

1840年代に入るとイギリス各地で鉄道建設に乗り出す民間企業が相次ぎ、「鉄道狂時代」となった.産業革命の進展に鑑みて鉄道事業の収益性に着目したためである.イギリスでの鉄道実用化に注目した欧米各国も、相次いでその採用に踏み切った.

アメリカ合衆国では18世紀にすでにイギリス同様の馬車鉄道があったが、1827年ボルティモア·オハイオ(Balti-more-Ohio)鉄道が敷設事業に着手し、1830年に蒸気機関車を使って開通した。これに刺激されて蒸気動力を用いた鉄道が次々に開業し、大西洋岸を中心に1840年には総延長約3500km、同50年には約1万4400kmの鉄道網が形成された·また19世紀中頃からゴールドラッシュによる西部への進出が本格化し、鉄道網は太平洋岸のサンフランシスコを中心に拡大した。そして1869年には大陸横断鉄道が開通し、翌70年には総延長約8万4700kmの大鉄道網が形成された。これらの鉄道の役割は農耕畜産業を中心とする地域開発·産業振興が主目的であり、その点でイギリスとは異なっていた.

一方西欧においては、ナポレオン戦争の影響で各国の経済情勢が悪化していたこともあり、国内交通網を変革するほどの鉄道の普及をみるまでには多少の時間がかかった。それでも1832年にはフランス(リヨンサンテティエンヌ間)で、次いで35年ベルギー(ブリュッセルマリーヌ間)とドイツ(ニュルンベルクフュルト間)、37年オーストリア(フロリスドルフワーグラム間)、38年ロシア(ペテルブルグツァールスコエ·セロ間)、39年イタリア(ナポリポルティチ間)、43年オランダ(アムステルダム~ユトレヒト間)と、相次いで鉄道開通に至った.

(4)植民地での鉄道建設

欧米各国に次いでそれらの国の植民地において鉄道建設が行われたことも、19世紀の国際情勢と土木事業の関係を物語るものである。特に、イギリスは植民地経営方策の一環として本国での鉄道網の展開とほぼ並行的に世界各地に鉄道線路を敷設していった。1836年カナダ、48年イギリス領ギアナ、51年チリ、53年インド(ボンベイ~ターナ間)、54年ブラジル、56年アルゼンチン、さらに大英帝国連邦の傘下にあったオーストラリアでは1854年、ニュージーランドでは63年と、次々に鉄道を開通している.これらの鉄道は港湾と原料生産地や市場都市を結び、本国へ送る工業原料や本国からの工業製品の輸送を担うものが大半で、本国のような広域的なネットワークを形成するまでには至らなかった。

(5)鉄道電化と都市鉄道の出現

産業革命による工業化社会の進展は都市への人口集中をひき起した·鉄道はこうした都市における人口急増の一因であるとともに、都市と周辺地域を結びつける重要な交通機関となった.1830年代の馬車鉄道に始まる路面軌道は、1879年にジーメンス(vonSiemens)が製作した電気機関車による列車牽引走行試運転の成功を皮切りに、一気に電化へ突入した.81年にはベルリン~リヒターフェルデ間で電車の実用運転が行われ、80年代には欧米の各都市に路面電車が登場した.ロンドンでは1863年に地下鉄が蒸気機関車を使って開業し、90年代に電化された·イギリスに続いて欧米各国でも大きな都市に地下鉄が導入されたが、増大する都市交通に対処するために高架軌道による電車の運転が90年代以降導入されるようになった。ベルリンのSバーンの煉瓦アーチ連続高架橋の形式は後に東京の高架鉄道に採用されている。路面電車、地下鉄、高架鉄道の3種類の電車は近代都市の中心的な公共交通機関の地位を確立した。

(6)鉄道の社会的影響

鉄道は大量輸送·高速性に加えて安全性が確保されたことにより急速に普及したが、さらに快適性を付加価値とすることによる大規模な文化的変革を近代社会にもたらした.1883年にパリ~イスタンブール間の国際列車オリエント急行がべルギーのワゴンリー(WagonLit)社の手で営業運転を開始した·当時イギリスを初めとしてヨーロッパ各国で産業革命の恩恵を受けた新興ブルジョワジーや中産階級の一部の間に鉄道旅行が流行し始めていたからである.国際列車の運転は各国の人々の間に時刻の標準化の意識をもたらし、駅舎建築と駅前広場の建設により各地の都市構造を変えていった.

長大橋の出現

(1)鉄橋の登場

鉄鋼産業の発達と道路·鉄道建設の進展により、橋梁技術も大きく変化した。従来のような木橋や石橋では架設が困難な条件の場所を通過する路線が多くなり、橋長や支間が大きくかつ積載荷重の重量化に耐えられる長大橋の必要性が増大した·

製鉄業者ダービー3世と、同じく製鉄業者で機械技術者でもあったウィルキンソンは、1779年セヴァーン川に世界最初の鋳鉄橋コールブルックデール橋(径間30.5m、総重量400t)を建造し、鉄橋時代の幕を開けた.鋳鉄橋はそれまでの石造橋と同じくアーチ橋の形式をとることが多かった.長大橋の夜明けを告げたテルフォード設計のメナイ海峡吊橋(18201826)は錬鉄製の鎖を用いた吊橋としては当時世界最大規模であり、以降19世紀半ばには錬鉄橋が全盛期を迎えた。また、1870年代からは鋼鉄橋が主流となり、吊橋以外の構造形式でも長大な橋の建設が次々に行われた。中でも1890年にベーカー(Baker、18401907)が設計したカンチレバー形式の鋼管ゲルバートラス橋であるフォース橋は、恐竜のような形態と圧倒的なスケールにより各界に賛否両論を巻き起した。この橋は近代橋梁独自の構造形式の開拓を試みたものであり、従来の様式主義的な装飾に彩られた橋梁造形からの脱皮をめざしていた.同じ頃トラス構造の開発に専心していたフランスのエッフェル(Eiffel、1832~1923)の方は、パリ万国博の時に建設したエッフェル塔(1889年)にみられるように装飾的な造形にも関心があった。橋梁を中心とする構造技術者が自覚的に近代土木技術の可能性に挑戦した時代であった。

(2)英雄技術者の時代

19世紀は土木技術者の英雄時代ともいわれる.1828年にイギリス土木学会が官許の法人組織になったとき初代会長を務めたテルフォードを初めとして、天才的な土木技術者が輩出し、近代文明社会の基盤を次々に建設していった。 ジョージ·スティブソソンの息子ロバート·スティブソソン(18031859)は、1850年にメナイ海峡にボックスガーダーのブリタニア(Britannia)橋を建設した際、理論計算のほかに模型実験や一括架設の施工方法を試みる等、多くの業績を残している.スティーブンソン父子によるリヴァプール·マンチェスター鉄道は、錬鉄レールの使用、路床建設、長大トンネルの掘削、63本の橋梁建設、泥炭地の軟弱地盤工法等、土木技術の飛躍的な進歩をもたらした画期的な事業であった。また1830年にクリフトン(Clifton)吊橋を設計したブルネル(Brunel、180659)は、造船技術者でもあり、ドックの設計も手がけている·クリフトン橋は設計競技でテルフォードの案を破って採用されたものであるが、完成したのは彼の没後の1864年だった·

1883年ニューヨークにレーブリング(Leobring)が建設したブルックリン(Brooklyn)吊橋は今日アメリカの国家的記念碑に指定されているが、この橋に触発されて長大橋の建設に従事するようになった土木技術者は少なくない.1867年のノーベル(Nobel、18331896)によるダイナマイトの発明やレセップス(Lesseps、18051894)によるスエズ運河の開通(1869年)も人類文明史を画する出来事であった·地球的規模で人間の生活空間の拡張が始まった時代といえるだろう.

都市の近代化

(1)近代都市計画の萌芽

鉄道の延伸に伴う、工業地帯や大都市への農村人口の流入は住宅不足をまねき、特に労働者階級の住環境の悪化を促進した.19世紀初頭以来R.オーエン(Owen、17711858)等の社会改良主義者たちは、貧困や不衛生等の環境問題を、工業化を推進する資本主義社会の矛盾としてとらえ、それらを解消するために理想的社会の姿を提案した。彼らの試みはあまりに空想的であったため、支配階級には受け入れられず、いずれも失敗に終わったが、都市の生活環境の向上や、協同組合による都市経営、都市と農村の融合等の観点への社会の注目を促し、近代都市計画の原点の一つとなった·工場経営者の中にも自ら工場を郊外に建設するとともに良質な住環境を労働者に提供しようとする者が現れ、キャドバリー(Cad-bury、18391922)によるボーンヴィル(Bournville、1895)等のモデルタウンが実際に建設された.

このような流れを受けてハワード(Howard、18501928)は1898年に「明日」〔1902年に「明日の田園都市(GardenCitiesofTomorrow)」と改題〕を出版し、都市と農村の結合、土地の公有、人口規模の抑制、開発利益の社会還元、自給自足経済、住民の自由と自治への協力等、斬新な構想に溢れる都市計画を提唱した·ハワードの思想は多くの人々に支持され、ロンドン北方に建設されたレッチワース(Letch-worth、19041913)とウェルウィン(Welwyn、1913~1919)の2つの田園都市に結実した、この成果は世界各国に大きな影響を与え、郊外都市開発のモデルとなった.衛星都市(satellitecity)の概念はここから発生し、郊外ニュータウン(newtown)開発の流れを生むことになった·

(2)衛生問題と上·下水道

産業革命が都市環境に及ぼした甚大な影響は、新たな技術の発展をもたらした。その一つが上·下水道の整備である。都市の給·排水のための上·下水道は古代都市にもあったが、近代的都市施設として最初に建設されたのは産業革命期のイギリスにおいてであった。都市に集中した貧困階級の住宅地は伝染病の巣となるほどのスラムと化し、都市の衛生状態の改善は大きな社会問題となっていた.

製鉄業の振興に伴い、1800年頃に木管に変って鋳鉄管が上水道の配水管として使われるようになり、高い送水圧に耐えられる広域的な水道網の整備が可能になった。また、ロンドンでは1873年に、それまでは制限時間給水であったものを昼夜連続給水に切り替えるほど、ダム建設の進展により水源確保も進んだ.浄水処理は、1829年ロンドンでテムズ川の水を砂で沪過したのが最初である.1870年代半ば以降戸過法がヨーロッパ全土に普及し、地表水を未処理のまま給水する上水道はほとんどなくなった。これは、一方で工場排水や生活汚水による水質汚染が進んでいたためである.

1831年のコレラ大流行により各地で暗渠式下水道の建設が促進された、イギリスでは1848年に公衆衛生法(PublicHealthAct)が制定され、1860年から75年にかけてバザルジェット(Bazalgette、1819~1891)の指導により、家庭雑排水と水洗便所の排水を雨水とともに排除する合流式下水道の整備が進められた。しかしテムズ川に沿って30kmも引かれた幹線渠で下流に集中放流したことにより、水質汚染をいっそう悪化させ、農業にも深刻な影響を及ぼしたため、下水処理の必要が叫ばれ、沈殿法が用いられるようになった。

パリにおいては1808年頃すでに20km以上に及ぶ開渠式の下水渠が整備されていたが、やはり1831年のコレラの流行を契機に、1850年代からのオスマンによるパリ大改造の一環として上水道の本管とともに延長400kmに及ぶ本格的な下水道が建設された、それらの幹線はセーヌ川の支流を暗渠化した大断面を有するもので、今日まで共同溝として機能し続けている。

ドイツでは1842年にハンブルクでイギリス人のリンドレー(Lindley、1808~1900)の指導により下水道建設が開始され、1860年頃にはミュンヘンやベルリンにも導入された。アメリカの下水道はフィラデルフィアで1801年に建設されたのが最初であり、1857年にはニューヨークのブルックリン地区に、翌年にはシカゴにも導入され、1860年までにはアメリカの主要12都市で公共下水道が整備された·これらの下水道整備事業は道路整備を伴いながら行われ、ガス灯照明等のための都市ガス配管網や、その後の電力供給線·電信柱等のエネルギー·通信網をも道路敷に収める基盤を形成したことになる.