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中世から近世へ

ヨーロッパの城郭都市

(1)ハンザ同盟と都市建設

キリスト教的世界観の浸透とともに、ヨーロッパにおける人間の生活空間の形成と安定化は教会勢力の支配下に進められる色彩が強くなった.

その中世ヨーロッパを特徴づけるものの一つにハンザ都市同盟がある·国境という明確な統治単位の境界を伴った政治体制がまだ確立されていなかったこの時代には、封建領主の許可と教会の庇護のもとにかなり広範な流通が行われた.特にバルト海とここに流れ込むライン川等の沿岸に立地した都市には商館が設けられ、港湾や運河の整備が行われた·ゲルマンのリューベックはその拠点的な都市であり、フランドルのブリュージュ、イングランドのロンドン、北欧のベルゲソ、ロシアのノヴゴロドにまで彼らの足跡は及んだ.

このような交易は当然利害対立による抗争を一方で生み、商業の拠点である都市は城塞として機能する必要があり、高い城壁や平時には運河も兼ねる深い堀で囲まれた中世ヨーロッパ都市が形成されることになった·都市の中心部には市場や広場が設けられ、そそり立つ教会の建設と並んで、港湾、河川、運河に関する土木工事と築城土木技術がそれぞれの地域の事情に応じて発展していった。例えば、山岳が多く石材が豊富に取れる地中海沿岸やイタリア、フランス、ドイツ等中西部ヨーロッパでは古代ギリシア、ローマ以来の石造構造物に関する技術が発展したが、低湿地が多く石材が取れないフランドル地方等のバルト海沿岸では煉瓦や土構造物に関する技術が進歩した.建築技術ではフライングバットレス(flyingbuttress=飛び梁付控え壁)を用いた高層の教会建築が発達し、石造アーチ技術の発展を促した。これらは後に芽生える近代土木工学の基盤となるものであった。

(2)城郭都市の発達

11世紀以来の経済振興による富の蓄積と技術の向上に伴い、それまで木造が主流だった封建領主の城館は、教会建築の進歩にも影響されて次第に煉瓦や切り石の建造物に変っていった.しかし西欧の築城技術に画期的な影響をもたらしたのは第1次十字軍遠征(109699年)である.このとき十字軍はニカエア、アンティオキア等イスラム都市の巨大な城壁に挑んで苦戦を強いられ、その経験から12世紀以降の東方の占領地では堅固な城郭を築いていった.これらは通例内郭を外郭で囲んだ二重構造の城壁と空堀を備えたもので、中国等の東方世界の都城造営手法をより小さなスケールで再構成したものであった。中でもシリアに残るクラク·デ·シュヴァリエ(CraqdeChevalier、1213世紀初頭)は最も完成されたものといわれる。十字軍の城郭建設手法はヨーロッパに直ちに導入され、フランスのノルマンディーにリチャード1世が造営したガイヤール城(Gaillard、1197年)や、南フランスのカルカソソスの都市城壁(13世紀)のように完璧なものが建設された。しかし都市人口の増大に伴い、不規則で狭い街路を特徴とするこれらの中世都市は何度も拡張を迫られ、やがて14世紀から15世紀にかけてのルネサンスの到来とともに大規模な改造を施されることになった。

(3)ルネサンスの理想都市

教会の圧力からの人間の解放をめざしたルネサンスの運動は、人間中心主義の思想を生み、都市空間の構成にもそれを反映させようとした·ルネサンスの中心になったイタリアでは、水の都ヴェネツィアや花の都フィレンツェ等の商業都市を拠点に都市的な洗練された生活様式を楽しむ階級が生れ、消費文化が芽生えて人口集中が著しくなった·フィレンツェでは富豪メディチ家の力により、数多くの教会やヴェッキオ橋(PonteVecchio、1335~45年)等の建設が行われ、都市改造が進められた。

しかし、不整形な城壁に囲まれた狭い市街地は高密化の限界に達しており、街路の拡幅や橋梁の架け替え、広場の整備等がローマにおいて断行され、本格的な都市改造事業が各地でも行われるようになった.このローマの都市改造は近世のバロック的都市計画の先駆といえるものであった.

こうした中で、16世紀から17世紀にかけてデューラー、スカモッツィ等による理想都市の計画案が考案された。それらは古典復興の思想により、古代ローマのヴィトルヴィウスの「建築十書」にある理想都市を原型とし、宇宙的調和を説くルネサンスの世界観や科学技術の進歩を考慮しながら、支配階級の権威の表現と防衛を重視したものであり、多角形の平面計画をもつ幾何学的な空間形態を特徴としている.しかし現実の社会はすでに近世的市民社会への道を歩んでいたためオランダのナールデン(Naarden)のように実際に建設された都市もあったが、多くは実現されずに終わっている。軍事技術が市民のための土木技術に転換していく時代が到来していたのである。ただ、防衛都市の考え方は、後の幕末の日本にも伝えられ、函館郊外の五稜郭や四稜郭のようにオランダ式要塞という形で技術移転されていった。

科学の誕生

(1)数理科学の芽生え

中世科学と呼ばれるルネサンス以前の学問の中にも、近代科学への萌芽が見出される。すでに13世紀には、ヨルダヌスが「仕事」や「モーメント」の概念を内包する原理を見出して斜面の静力学的問題を解明していた。また14世紀になると、アリストテレス的自然学に対する批判の中から、物体の運動に関する数学的定式化を試みるものが現れ、マルシリウス等が「運動量」の概念や「慣性」の法則等の力学的問題に取り組んだ.しかしこれらはいずれも実証的なものではなかった·

「科学革命」と呼ばれるコペルニクスの地動説の出現により、世界観の根底的な転換が起きた後、実証主義による科学法則の確立と技術的応用の道が開かれた.ルネサンスの人間中心主義の世界観の台頭は、理性主義の思想を押し進め、自然現象の客観的観察による法則性の解明や建設技術等への応用の努力が活発化したのである.

レオナルド·ダ·ヴィンチ(LeonardDaVinci、14521519年)は万能の天才と呼ばれ、芸術から技術のあらゆる領域に足跡を残し、運河や橋、水門等の土木構造物の設計や提案にも携わった.直感的洞察に優れたダ·ヴィンチは図式的解法により力の合成等の研究を行い、構造物の設計を行った.一方、実験という検証方法を多用したガリレオ·ガリレイ(GalileoGalilei、15641642年)は梁の力学的強度に関する研究も行っており、数学的定式化を行っている.イタリアのこの2人に代表されるように、1415世紀の科学技術は経験主義的であったのに対し、1617世紀には近代科学技術の基礎としての数理科学的方法論が広まっていた。この流れに沿って17世紀にはベルヌーイー家(JohannBer-noulli、16671748年やJakobBernoulli、16541704年)、フック(RobertHooke、1635~1705年)が流体力学や弾性論に取り組んだ。同時代のライプニッツやニュートン等の研究も含めて、彼らの定式化した原理は今日に至るまで近代土木技術者の基本的素養をなしている。

また、ルネサンス美術を特徴づける透視画法は、図法幾何学による正確な対象記述への眼を開き、技術的知識の伝達と普及に貢献した。さらに、ブールヴァール(boulevard)と呼ばれる広幅員街路のヴィスタ(vista=通景)による美観の形成に重点をおいたバロック的都市計画と結びつき、17~18世紀にかけて中央集権体制が整えられた各国において中世都市から近世都市への改造事業の流行を生んだ。それはやがて訪れる産業革命による都市環境の悪化を解消するための近代都市整備へと展開するものであった.

(2)建設技術の理論化

近世に至るまでは科学技術知識の諸領域が専門分化されておらず、また科学的知見に基づく建設技術の体系化もほとんど行われていなかった。中世の高層建築であるゴシックの教会も経験的判断の蓄積に基づいて建設されたものであった。しかしルネサンス期には図法幾何学の発達とともに算術的方法による建築や城塞、橋梁の理論化が試みられた·ダ·ヴィンチに先だってブルネレスキやアルベルティが数学に基づく新しいアーチ構造の開発と理論化を手がけている.16世紀末に設計競技が行われたヴェネツィアのリアルト橋(PonteRi-alto)においては、アントニオ·ダ·ポンテ(AntonioDaPonte、1512~97年)が軟弱地盤を考慮した基礎工法の上に石造アーチ橋を提案して採用された·こうしたイタリアの建設技術者たちは、他国に先んじた理論を携えて各地の建設事業に足跡を残している。

ルネサンス期における建設技術上の進歩は、建設機械の開発にも現れている·カルダノ(GirolamoCardano、1506~76年)等は滑車や歯車、てこについて力学的な研究を行い、起重機や運搬機の理論的開発を手がけている.16世紀にはバケット型浚渫機が運河建設に使われた.水力を動力源とした建設機械も考案された、また三角法による測量法も17世紀初頭には平板とともに実務の場に導入されている。

中世日本の地域開発

農業基盤の形成

四季の明瞭な気候風土の中でも、梅雨と台風の時の洪水は弥生時代に水稲耕作が定着した日本の農業社会にとって最大の難問であった。

わが国最初の大規模な河川改修工事といわれる難波の堀江の掘削や茨田の堤の築堤(淀川南岸約10km、324年)は、当時の先進国であった中国大陸の影響を受けた韓民族の渡来人、帰化人により技術移転されたものと考えられている。

大和から難波の地域は大和朝廷にとって最も重要な拠点であったが、河川の氾濫には悩まされ続けた.788年に和気清麻呂が淀川流末右岸に放水路開削工事をした後、さらに大和川を淀川から分離する大工事に挑み、延べ20万人が動員されたが失敗に終わった。これにより奈良朝衰退が早まり、794年の平安京遷都に至ったといわれる.

平城京や平安京の都市計画事業が中国の都城造営手法に影響されていることは先述したが、仏教の伝来とともに大陸の影響はさまざまな領域に及んだ.特に国家権力の伸長に伴い、7世紀には地方において国府と国分寺、国分尼寺の建設が行われ、その生活基盤を確立するために、条理制に基づく開墾が行われた。それらの建設事業においては測量や架橋技術に関して渡来僧が重要な役割を果し、大化改新の時の土地 丈量から班田収授の施行の基盤をなした。また中国へ留学し帰国した僧侶たちも広範な知識を有する指導者として農業基盤の形成に努めた·行基(668749年)は山崎橋を架け(726年)、溜池の狭山池を築き(732年)、日本初の地図(行基海道図)を作成した(738年頃).空海(774825年)は讃岐の満濃池を修築(821)するなどの足跡を各地に残している。

(2)武家社会と土木事業

貴族社会の時代が去り、武士階級が台頭するようになると、土木建設事業の内容も大きく変り始める。

12世紀半ばに平清盛は音戸の瀬戸を開削し、1173年に大輪田の泊に波止を築いて瀬戸内海の流通経路を整備した。

源氏の鎌倉幕府は和賀江島に防波堤を築き(1232年)、鎌倉街道を整備して関東地方開発の基盤を形づくった。この時代の港湾整備は国内の沿岸航路のためだけでなく、環シナ海、環日本海の交易上からも必要なことであった。しかしー方では、1276年の元寇防塁建設にみられるように戦乱に備えるための軍事土木工事も行われた。

応仁の乱より10年も前の1457年には太田道灌が江戸城の原形を築いている。それまでの城は、天然の地形を利用して山頂に砦を構え、石垣の城塁を巡らした山城が主体であった.道灌の城は海岸に面した大地の突端部に櫓を築き、堀を巡らしたもので、平山城の先駆けとなった、彼は関西と東北を結ぶ交通の要衝をおさえたのであり、その卓見は徳川幕府、そして明治政府へと引き継がれていった。

16世紀の戦国時代には武将たちが領地内統治のために城を築き、軍事的基盤の強化のために土木事業に力を入れた。特に人心掌握に結びつき、かつ食糧生産にかかわる治水事業の成否は一国の命運を左右する重要課題であった。

甲斐の武田信玄(1521~83年)は甲府盆地を流れる釜無川の洪水対策に独自の工法を発案して大きな成果を挙げた.1542年に大洪水に見舞われた甲府盆地の水田地帯を守るために、信玄は釜無川、塩川、御勅使川の三川合流部において、洪水流同士をぶつけて水の力をそぎ、さらに竜王高岩に衝突して方向を転じた流れを信玄堤により導くという巧みな技法を採用した。この結果、以後甲府盆地は永く水害から解放されることになった。これは土石流の多い御勅使川の特性を十分に理解した河川工法であり、このように地域ごとの河川特性をふまえた治水技術が各地で進歩し、江戸時代の新田開発における農業水利の基盤形成につながっていった、そして甲州流、紀州流、関東流等のわが国特有の治水工法が編み出されていったのである.

治水とともに築城技術も大きく発展した。すでに織田の清洲城、北条の小田原城、島津の鹿児島城、伊達の米沢城等の堅固な城郭が各地にできていたが、1543年の種子島への鉄砲伝来により戦闘形態が変り、大砲等の銃器類の使用を考慮した新しい築城技法が求められていた。その先鞭は織田信長が築いた安土城(1576年)によってつけられた.信長はほとんど創作といってよい天守閣を近江平野の中の山の上に築き、穴太衆と呼ばれる石工集団を登用して強固な石垣を山肌に建設した。天下平定の後、信長は古代からの道路制度を見直し、戦国武将の領国の関所を廃止させて楽市楽座の制により流通経済の促進を図った、この過程で瀬田の唐橋の架け替え(1575年)等の橋梁工事が進められ、橋梁技術の進歩が促された·しかし、軍事的な理由からこれらの特殊な普請技術の伝授は特定の技能集団の間に限られ、有力な武将は優れた技術者を独占的に重用した。

信長の遺志を継いで全国統一を果した豊臣秀吉は、大坂を中心とする地域開発事業に着手した。念願の淀川の大改修、新田開発、大坂城の拡充、京都の御土居の築堤や町割の改編等のほか、全国的な道路網と駅制の整備、太閣検地の実施等、土木技術的にも大きな波及効果をもつ事業を次々に展開していった.