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土木史の構成

土木と土木史

エクメネの拡大と土木技術の役割

現代において、地球の表面は「エクメネ(ecumene)」と呼ばれる、人類が居住可能な領域へと急速に変化しています。これは、古代ギリシャ語で「オイクメネ(oikouméne)」と表現される、住みうる世界の概念に相当します。

土木技術は、本来このエクメネの拡大と質的向上を目的とした技術体系です。歴史を振り返ると、土木技術の進歩に伴い、かつては「アネクメネ(anoekumene)」と呼ばれた非居住地域が縮小し、人口が増加する一方で、エクメネは着実に拡大してきました。

その結果、現在の地球上では、砂漠気候地域、氷雪気候地域、そして雪線より上部の高山地域などを除くほとんどの地域が、人類の生活圏として取り込まれつつあります。土木技術の発展は、人類のエクメネ拡大に大きく寄与してきたと言えるでしょう。

今後も土木技術は、居住空間の安全性と快適性を向上させ、持続可能な社会基盤を構築していく上で重要な役割を果たすことが期待されています。

エクメネの特徴と人口分布

人間の居住可能な地域の限界は、主に気候条件によって決定され、食料生産の制約とほぼ一致しています。そして、居住可能地域内における人口分布は、経済発展の段階と密接に関連しており、極めて不均一な状態にあります。

例えば、人間が居住できる地域は北半球に偏在し、大陸の沿岸部や半島部に集中する傾向があります。一方で、内陸部には人口が少ない傾向が見られます。また、低地には人口が集中し、高地には少なくなる特徴があり、熱帯や温帯には多くの人が居住しているのに対し、寒帯には人口が少ないという傾向も存在します。

人口分布の平均高度は、居住地の高度制約と密接に関係しています。低緯度地域では平均高度が高く、高緯度地域では低くなる傾向が観察されます。例えば、南半球の低緯度地域では、酷暑を避けるために標高3,000メートル以上の高地にも大都市が発展しているケースがあります。一方、日本では人口の98%が標高500メートル以下に集中しているという特徴があります。

参考リンク

土木技術とエクメネの変革

土木技術は、人類の居住可能な地域であるエクメネを、生産活動や日常生活の場として変革してきました。具体的には、道路、鉄道、港湾、空港などの土木施設や、橋梁、トンネル、ダムなどの土木構造物を建設し、社会・経済活動の基盤として整備してきました。

これらの infrastructure(社会基盤)は、人々の移動や物流を支え、産業の発展を促進し、さらには生活の質を向上させる上で不可欠な役割を果たしてきました。また、自然災害に対する防御や、水資源の管理、エネルギーの供給など、社会の安全と安定を維持する上でも、土木技術は重要な貢献を果たしてきたと言えます。

したがって、土木の歴史は、人類がエクメネに社会的な基盤資本(infrastructure)を形成し、発展させてきた歴史であると言っても過言ではありません。土木技術の進歩は、人類の生活空間を拡大し、社会・経済活動を支える基盤を構築することで、文明の発展に大きく寄与してきたのです。

土木の範囲と構成要素

土木の範囲は非常に広く多岐にわたり、社会・経済活動を支える物理的なインフラストラクチャーとそれに関連するものを対象としています。

土木を対象・目的と方法論、要素と総合・系統の視点から見ると、まず第一に、土木・建築を含む国土、都市、地域などを包括する国土システムが存在します。第二に、鉄道、道路、港湾、空港などを含む社会基盤施設システム、さらには橋梁、トンネル、ダムなどを含む土木構造物システムがあります。

技術的な側面から見れば、これらのシステムを建設し、改修し、そして撤去する土木事業、この土木事業を実現するための計画、設計施工、維持・管理に関わる土木技術、そして土木技術を科学的に裏付ける技術学としての土木工学があります。これらの要素は重層的に関連し合っています。

したがって、土木の歴史を体系的に理解するためには、土木事業史土木技術史土木工学史の三つの側面から考察することが重要だと考えられます。

  • 土木事業史:土木事業の変遷と社会・経済との関わりを明らかにする
  • 土木技術史:土木技術の発展過程とその背景を探る
  • 土木工学史:土木工学の学問としての発展と体系化の歴史を辿る

これらの観点を総合的に捉えることで、土木が社会の発展にどのように寄与してきたのか、そしてこれからの土木の在り方を考える上で重要な示唆が得られるでしょう。

土木事業史

総論

前近代社会における土木事業と都市形態

前近代社会では、宗教や封建制度が社会の主要な支配原理となっており、土木事業は主に神聖建築や城郭の構築に集中していました。

土木事業は、封建社会において領主や王の権威を象徴するものとして展開されました。当時の都市は防御を重視し、城壁に囲まれた構造が主流でした。これは、戦争が頻繁に行われていた時代背景を反映しています。

産業面では、手工業が中心であり、農業と手工業が密接に結びついた経済構造が形成されていました。土木技術は、これらの社会・経済構造を支える基盤として、また権力者の権威を示す手段として用いられていたのです。

前近代社会における土木事業は、現代とは異なる社会的・経済的・政治的文脈の中で行われていました。宗教的・象徴的な意味合いが強く、実用性よりも権威の表現が重視された時代だったと言えるでしょう。しかし、これらの事業が、近代以降の土木技術の発展の基礎を築いたことは間違いありません。

近代社会における土木事業と都市形態

近代社会の到来とともに、啓蒙思想産業革命の影響を受けて合理主義が広まり、公共事業の重要性が認識されるようになりました。

資本主義の台頭と市場経済の発展に伴い、大規模な土木プロジェクトが開始されました。これらのプロジェクトは、産業基盤の整備と経済発展を目的としたものでした。

工業化の進展に伴い、都市への人口集中が加速しました。都市の急拡大に対応するため、労働者層のための住宅整備や、上下水道、電力、ガスなどのインフラ整備が行われました。

また、産業の機械化が進むにつれて、輸送手段の効率化が求められるようになりました。この需要に応えるべく、鉄道道路などの交通インフラの整備が積極的に進められました。

近代社会における土木事業は、社会の発展と経済成長を支える重要な基盤として位置づけられるようになりました。合理的思考に基づく科学技術の応用と、資本主義経済の発展が、土木事業の大規模化と高度化を後押ししたのです。この時期の土木技術の進歩は、現代社会の基盤を形作ったと言っても過言ではないでしょう。

未来社会における土木事業と都市形態

未来社会では、持続可能性環境への配慮が中心となり、地球規模の課題に対応する価値観が重視されると予想されます。

地球温暖化や資源枯渇といった問題に立ち向かうため、国際的な協力体制の構築が不可欠となるでしょう。また、技術の発展により、これまでにない新たな都市形態やインフラのあり方が提案されると考えられます。

スマートシティや環境に優しい都市の増加は、持続可能な都市開発を促進するでしょう。IoTやAIといったデジタル技術を活用することで、エネルギー効率の向上やリソースの最適化が図られ、都市のレジリエンス(回復力)が高まることが期待されます。

さらに、グリーンテクノロジーやデジタル技術の導入は、産業構造にも大きな変革をもたらすと予想されます。再生可能エネルギーの利用拡大や、シェアリングエコノミーの浸透など、これまでとは異なる経済モデルが台頭する可能性があります。

未来の土木事業は、こうした社会の変化に対応し、持続可能で resilient(強靭)なインフラを構築することが求められるでしょう。環境負荷の低減、資源の効率的な利用、防災・減災機能の強化など、多様な観点から技術革新を進めていく必要があります。

土木技術者には、専門的な知識だけでなく、グローバルな視点と学際的な思考力が求められる時代になるでしょう。未来社会における土木の役割は、単なるモノづくりにとどまらず、社会の持続的な発展を支える基盤として、より重要性を増していくと考えられます。

前近代社会

前近代社会では、伝統性が尊重され、慣習的で合理性に欠ける要素が社会システムの相当な部分を支配していました。

社会体制は閉鎖的で、自然支配による静態的な地域社会が一般的でした。肉体的な能力や人口の多寡が基盤となり、王侯・貴族、僧侶・神官などの権力者によって支配されていました。都市体制は農村と都市が対立する時代であり、空間は主に「生存のための空間」であり、点的な集落が主流でした。産業体制は農業が主要な産業であり、第1次産業型社会が特徴で、農業革命の時代でした。

ヨーロッパの都市に焦点を当てれば、古代ギリシアの都市はアクロポリスの丘に神殿を構え、そのふもとにアゴラを持った山下集落が広がり、城壁で囲まれた都市がありました。また、ローマの都市は堅固な城壁とフォーラム(公共広場)を有し、東西南北に切り通した幅広い公道がテリトリウム(領域)の際界まで延びていました。中世の都市では、教皇や大僧正、領主が居住し、宗教力と軍事力が支配し、奴隷と農奴が経済的基盤を支えていました。

この時代の人々は目に見えない敵に対抗するために宗教的な呪術を用い、外部からの脅威に対しては軍事力を動員して生存を確保しようとしました。産業は主に農業などの第1次産業が中心であり、そのため土木事業は宗教的建造物や軍事的な構築物、灌漑排水や新田開発などの大規模な農業土木事業に特色がありました。

前近代社会における土木事業は、宗教的・軍事的・農業的な目的に強く結びついていました。合理性よりも伝統や権威が重視され、社会の閉鎖性や自然支配の影響を色濃く反映していたと言えるでしょう。しかし、これらの事業は、近代以降の土木技術の発展を支える基盤となったことも事実です。前近代の土木事業は、その時代の社会構造と密接に関連しながら、人類の生存と発展に貢献してきたのです。

近代社会

近代社会では、経済性やイデオロギーが尊重され、経済的合理性が社会システムの相当な部分を制御しています。

社会体制は画一的な統合社会であり、機械や生産手段の進歩によって動態的な地域社会が形成されています。経済力と生産人口が基盤となり、ブルジョア的な大衆や社会主義的な運動家群によって支配されています。都市体制は都市発展の時代に入り、急速な都市化が進行しています。空間は主に「生産のための空間」であり、面的な拡大型都市が広がっています。産業体制は工業などの第2次産業を主要な産業とし、工業化や都市化、経済的効率向上を目指した産業革命の時代です。

ヨーロッパの都市では、火砲の進化により城壁が防衛に必要なくなり、むしろ交通の障害になることから、これらの防衛施設が撤去され、跡地は環状道路などに改築されました。例えば、ウィーンのリング(Ring)や東京の堀を埋め立てた都市改造、そして高速道路の建設などがこれに該当します。これらの変革は都市の構造や機能を変え、交通やアクセスの改善に寄与しました。

近代社会における土木事業は、経済発展と都市化を支える重要な基盤として位置づけられています。効率性や合理性を追求する近代的な価値観が、土木技術の発展を後押ししてきました。都市の防衛機能が不要になったことで、都市空間は生産活動や交通機能を重視する方向へと再編されていきました。

未来社会

未来社会では、快適性と保健性が重視され、人間性の尊重と自然・人文環境の保護が社会システムの相当部分を制御するようになるでしょう。

社会体制は、個性化とその融合化の方向に向かい、情報を創出する知識人が主体性を持った、社会的流動性の高い地域社会となります。ここでは主に知的能力と知識人口が発展の原動力となり、社会は大衆とその指導者層によって支配されるようになります。

また、都市体制はメガロポリスやエクメノポリスの形成時代に入り、生活の都市化と環境の田園化が進むことで、「生活のための空間」が都市空間で優位を占めるようになります。産業体制は第3次産業が有力となった流動的な生活型の地域社会となり、第1次産業も1.5次産業あるいは工場栽培の2次産業型に移行する傾向が強まります。そして、製造・加工業等の第2次産業はハードウェアの部分を維持しながらもソフトウェアの割合が高くなり、人々にソフト指向への意識革命が起こります。

ヨーロッパや北アメリカ、日本の都市では、経済的効率の極大化が抑制され、ゆとりや遊びのある快適な生活環境の整備が重要になってきます。したがって、都市は美・感・遊・創の感覚空間と情報装置を備えるようになり、新しいライフスタイルを触発するような劇場都市やインテリジェントシティへと変容していくでしょう。

土木技術史

土木技術は、人類が自然と共存し、社会を発展させてきた上で不可欠なものである。土木事業を実現するための技術である土木技術史は、社会の変遷と共に大きく変化してきました。

前近代社会の土木技術

日本の土木技術は、古くから米作りと深く結びついて発展してきた。

弥生時代には環濠集落を築き、古墳時代には貯水池を造営し、律令時代には条里制に基づく給排水路を整備した。戦国時代に入ると、治水事業が活発化し、さらに江戸時代には農業水利事業や新田開発も盛んになり、農業土木技術が大きく進歩した。

しかし、土木技術は単に生産基盤の整備にのみ用いられたわけではない。古墳時代には仁徳陵のような宗教的建造物が築かれ、律令時代には大陸から伝わった土木技術を用いて平城京長岡京平安京などの大都市が造営された。戦国時代には、城郭を中心とした城下町が各地に建設され、豊臣秀吉による大坂城はその代表例である。江戸時代の一国一城令(1615年)を契機に、計画的な城下町が形成された。城郭は政治・経済の発展を考慮し平野の中心部に立地されつつ、軍事的な観点から小高い丘や川沿いに築かれることもあった。また、年貢米や物資の輸送のため、利根川、信濃川、淀川、最上川、筑後川などの河川や琵琶湖が改修され、各地に港湾が整備された。

このように、日本の土木技術は、ヨーロッパの前近代社会と同様に、宗教、軍事、そして農業などの第一次産業のインフラ整備に重点が置かれていた。

近代社会の土木技術

日本の近代社会(明治以後から現代まで)には、3つの技術革新がある。

第一は、動力革命と自動化革命が組み合わさった、動力と繊維産業の複合時代と呼ばれる時期だ。蒸気機関と紡績機械が結びついて、新しい繊維産業が興った。この繊維産業を発展させ、維持するためには、紡績機械や染料を製造するための機械工業や化学工業が必要になる。また、原料の綿花や羊毛を大量に輸入するために、船舶の建造が必要だった。このため造船業や海運業が発達し、これがまた機械工業を誘発し、製鉄業を刺激した。この産業の循環に伴って、土木技術は、これらの産業の基盤施設整備のための港湾技術や鉄道技術に重点が置かれた。

第二の技術革新は、戦後の昭和35年頃から劇的に展開された、産業コンプレックスの形成時代だ。この時代には、水力発電から火力発電に中心が移り、石油精製、石油化学、鉄鋼、造船業などのエネルギー産業、素材産業、重機械産業等、いわゆる重厚長大産業が一世を風靡した。そして、それらの製品は自動車産業と重電機産業、家電産業に供給され、産業複合体を形成する。臨海部には大企業による金属化学、石油化学、天然ガス化学を中心とした工業地帯が広がる。つまり、水産加工場などの漁業中心の産業構造から素材産業中心の新しい産業構造へと転換した。また、内陸部では主力産業が農業から加工組立工業へと転換していく。このようにして、これらの産業から生み出された製品は大量生産システムの技術基盤に立っているため、物流も同一製品の大量輸送システムへと転換しなければならない。この転換に呼応して、土木技術も従来の技術に加えて、臨海部の土地造成技術や大規模な掘込み港湾技術、さらには高速道路技術、新幹線技術が進歩し、用水・排水技術も農業用だけでなく工業用も含めた多目的技術へと変化してきた。これらの技術は、いずれも大規模技術であるため、各種の大型建設機械が投入され、計画、設計、施工、維持・管理のあらゆる部門にコンピュータが利用されるようになった。

ところが、昭和40年代の中頃から環境問題が深刻化し、それに続いて、いわゆる2回の石油ショックが日本の産業界を襲った。このため、日本の産業は公害防止型および省エネルギー型の技術開発を求められた。つまり、1983年頃から起こった第三の技術革新がこれで、技術の複合時代とも言われ、今日も進行中である。

この時代の技術の中心は、エレクトロニクス技術で、これと機械技術が組み合わさったメカトロニクス技術が生まれ、さらに、生物科学と組み合わさって生物工学が誕生した。そして、これらの新しい技術が素材産業を刺激して、ニューセラミックスなどの新素材が生まれる。つまり、多種の技術が相互に絡み合った新技術が開発される時代である。

これらの先端技術の製品は、知識集約型であり、小型軽量化が進んでいます。そのため、製品は輸送コストの影響を受けにくく、航空機などの高速な輸送手段が多く利用されています。

また、先端技術産業は、高度な知識や個人的な生の情報に支えられているため、快適な生活環境と頻繁な交流の機会が求められます。

そのため、これからの土木技術には、従来の技術に加えて、以下のような新しい役割が期待されています。

  1. 超高速交通技術や高度情報通信技術を支える基盤施設の建設技術
  2. インテリジェント都市やアメニティ都市など、新しい産業環境や快適な生活環境を整備する都市工学的技術
  3. 自然科学と社会科学の両方を基礎とした社会工学的技術

これらの技術は、今後ますます重要性を増していくでしょう。土木技術者には、幅広い知識と柔軟な発想が求められる時代になっています。

土木工学史

土木工学が学問として確立したのは、18世紀のフランスにおいてです。最初は技術者が軍隊の一部として組織され、主に軍事技術に従事していました。しかし、道路技術のように軍事と民間の両方に関係するものも多く、次第に民間の技術にも携わるようになりました。ここに、「ジェニシビル」つまり土木工学が成立したのです。イギリスでも産業革命をきっかけに近代土木工学が成立し、1828年には法人格を持つイギリス土木学会が設立されました。

日本での土木工学の始まりは、他の科学技術と同様に欧米からの直接的な輸入でした。そして、この状態から脱却したのは1914年(大正3年)の土木学会の設立からだと言われています。土木学会の前身は1879年(明治12年)に設立された工学会です。当時のあらゆる工学・技術者が集まり、日本の工業の発展とともに盛んになりました。しかし、科学の進歩は必ず分野の分化を促します。1885年(明治18年)には日本鉱業会、1886年には建築学会、1888年には日本電気学会、1897年には造船協会、日本機械学会、1898年には工業化学会、鉄道協会と次々に独立していきました。土木学会の独立は最後でした。これは土木技術者が工学会の中心を占めていたことによるものです。

土木工学の教育は1871年(明治4年)に工部省に設置された工学寮から始まります。これは1877年に工部大学校として改組され、さらに1886年に東京大学工芸学部と合併して帝国大学工科大学となりました。そして1897年(明治30年)には、土木工学科に鉄道工学、河川工学、橋梁工学、衛生工学、材料および構造力学の講座が設けられました。また、この流れとは別に、開拓使仮学校から始まった札幌農学校が1876年(明治9年)に札幌に設置されました。ここでも開拓技術教育の必要から土木学の科目が講義されていました。