江戸時代の国土開発
五街道の整備
わが国の交通体系の整備は、水上交通より陸上交通が先んじた.水上交通は、自然に則して発展し、本格的な整備が実施されたのは中世を経て近世になってからである.
陸上交通の整備は、律令国家の五畿七道の制が嚆矢とされている。全国に五畿(大和、山城、河内、摂津、和泉)七道(東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海)の行政区画を制定したことから、京都を中心に各国府に連なる放 射状の官道が設けられた。それらの官道は大·中·小に等級づけられ、山陽道を大路、東海道、東山道が中路、その他を小路としたが、それらの実体は定かでない·
中世になると、鎌倉を中心とした鎌倉街道が整備された·さらに近世になると、参勤交代の便や商業の発達により、交通施設整備の必要性はいっそう高まった.
そこで幕府は、江戸市中の日本橋を起点に幹線道路として五街道を整備した·五街道とは、東海道(日本橋京都)、中山道(日本橋高崎岐阜京都)、奥州道中(日本橋宇都宮白河)、日光道中(日本橋宇都宮日光)、甲州道中(日本橋甲府下諏訪)で、街道には、宿駅が整った.江戸と京都を結ぶ表通りと称される東海道には、品川から京都まで53次があった。一方、裏通りたる中山道は、木曽街道とも呼ばれ、板橋から上野、信濃、木曽谷を経由して美濃、近江に入り、草津宿で東海道に合流した·この間を中山道という場合と、さらに延長して京都までを指す場合とがあり、板橋から京都まで69次が並置された.中山道は、加賀金沢、越後高田などの大名34家が参勤交替に利用し、北陸、信濃、江戸の交通を主とした·東照宮が鎮座し、日光奉行もおかれた日光道中は、千住から鉢石まで21次があった(なお、本街道とは別に、小山壬生鹿沼今市の壬生街道、日本橋川口岩槻幸手の御成街道が整備された).また、中山道に合する甲州道中は、内藤新宿から甲府まで38宿で、さらに6宿を加えて下諏訪に至った.江戸防衛の要所として甲府が重要視されたことから、甲州街道が五街道の一つに加えられた。しかし、交通量は比較的少なく、参勤交替など利用する大名も、わずか3家にすぎなかった。日本橋から陸奥白河まで33宿を数える奥州道中は、厳密には宇都宮まで日光道中と重複し、その間を除いて、宇都宮から白河までを指す場合もある.
これらの街道には、軍事、治安の見地から要所ごとに関所を設けたため、一般人には不便をきたした·特に商人などは、不便をさけて脇街道を利用することも多かった。このうち、伊勢路(東海道四日市伊勢山田)、佐屋路(尾張岩塚佐屋桑名東海道)、美濃路(名古屋大垣中山道垂井)、中国路(大坂豊前小倉)、水戸道(武蔵新宿常陸~水戸)などの脇往還が最も重要とされた。
こうした五街道と脇街道によって、全国幹線陸上交通路網が完成していた。これらの街道に対して、幕府は、強い関心を示した。
1659年(万治2)、道中奉行をおき街道の制度を定めて幅5間とし、36町ごとに一里塚を設け、並木を図り、駄賃を制定して利用者の便を図った.街道はできるだけ平坦にして、山中で切り下げを図ったところも少なくない。特殊な場合として大分県耶馬渓には、僧禅海により青の洞門が高さ2丈·幅3丈·長さ100間余の規模で1720年(享保5)から1750年(寛延3)の年月をついやして建造されている·悪路として箱根の険路などがあげられるが、路面は比較的よく整えられ、平戸や長崎などでは切石により舗装されたところもあった。また、大津と京都、京都と伏見の間では往来がとりわけ頻繁で、牛車利用がめだった。そのため、牛車道と人馬道が区別され、牛車道には白河石を用いた舗装が整えられた.江戸時代末には大津~京都で大改修が実施され、溝を切り込んだ軌道が牛車用に設けられた.
街道の整備に応じて橋の建設も進んだ.一般的には桁橋であったが、構造的な変化も生れた.1673年(延宝元)の錦帯橋や九州各地で石造りアーチ橋が架けられた、そして幕府は、街道並木の整備と維持管理をとりわけ熱意を傾けて実施した.
街道並木は、緑陰の提供が重要な目的の一つと考えられた。さらに、並木による寒暑の調節の役割も重視した、そして並木に、道路敷の明示と保全の役割をも課した.そのほか、防風、防雪、防砂などの効用を含めて多目的な施設として幹線交通路の便宜に供した·
幕府が整備、維持、管理した五街道と脇街道では、実用的効用が強調された·この実用的効用を求めた高木植栽は、東海道の松並木、日光街道の杉並木など現在でも随所に残っている·現存のこうした高木並木は、良質な風景として史蹟や名勝となっている。つまり実用的効用を強調した近世の街道並木が、現代では貴重な風景づくりの遺産として評価されている·
1601年(慶長6)、幕府が東海道に53次の伝馬の制を定めてから、多くの人々の往来に供するために五街道の整備が精力的に進められた·その起点たる日本橋は1603年(慶長8)2月に架けられ、その後現代に至るまで、国道の起点とされている·
新田開発と用水路
(1)新田の分布
低湿地や荒地、あるいは河川や海浜の寄洲の干拓などによって得た土地は、墾田と呼ばれていたが、江戸時代には新田と称した·
江戸時代初期の藩政確立の諸課題のうち、生産物地代の確保が最も重要視された.そのため、全国的に歴史上最も新田開発が活発に実施された時代とされている·国土開発の技術的視点からみれば、江戸時代中期の新田開発のピークに、わが国の国土利用の原型がかたちづくられた時代とも評されている。
水田稲作技術の導入以来平安初期までに開拓された耕地面積は、わが国最古の耕地統計となる「倭名類聚抄」(和名抄)をもとに、近世反別換算でおよそ104万町歩と推定されている·1598年(慶長3)の太閣検地からの推定では、206万町歩の耕地面積といわれる。したがって、800年間に102万町歩の耕地拡張が行われたことになる。ところが、1873年(明治6)の地租改正を目的とした旧反別調査では、323万町歩が記録されている。このことから、江戸時代の新田開発は、古代から中世にいたる期間のわずか1/3に相当する275年間で117万町歩にも及んだことになる。これを新田率で表現すれば、中世の新田率は50%、近世では64%に達したことになる·1645年(正保2)の55180村に対して、1873年には70026村と記録されているので、228年間に14846の新村がつくられ、近世の新村率は78%にも及んだことになる.これら新田開発に伴って成立した地名には、特徴的な名が付けられている。最も多いのが「新田」で、そのほかの地名も集団的に分布している.荒野、興屋、興野、幸谷、新屋敷、荒屋敷、 出在家、新町、新宿、新開、新、開、啓、新涯、新ヶ江、開作、牟田、新地、籠、搦、開田、開墾などがある.また、本村の地名に新を付記した地名もある。あるいは、地域によっては特殊な地名が分布しているところもある.津軽平野では、江戸時代初期の新田開発を「派立」と呼び、江戸時代後期の開拓地に新田名を付記している·庄内平野では、赤川や大山川流域に京田、興屋の地名が列状に並んでいる.そして、最上川デルタ地域には新田が多く分布している.ここでは、京田が慶長以前の開発地、興屋は慶長年間から元和年間の開発地、また新田は寛永年間以降の開発地名となっている。
(2)河川と用水路
日本列島を地学的に東北日本と西南日本に区分してみれば、稲作を主軸とする生産経済は、西南日本から導入·普及が進み、古代には西南日本に広くいきわたった.中世になると、すでに西南日本では開発候補地が限界に近くなり、既耕地の反当り収量の増加、二毛作の進展、換金作物の栽培など、新規耕地の開発よりむしろ農業技術発展の方向がみられた。西南日本に対して東北日本では、河川の規模が大きく、河川の乱流の下に平野部には湖沼の多い湿原が広く分布しているため、古代の技術では対応が困難で開発が遅れたが、中世になると広大な開発可能地となった。また、北陸や東海地方の扇状地を含めて、東北日本の扇状地河川部分で大規模な用水路が整備され、本格的な扇状地開発が進展した。これらの開発では、扇面に多くの派川を分岐していることが基本的な条件で、分派川をもとに自然発生的な農業用水路が整っていった.自然河川のままで用水路の役割を果していたことから、中世に整備された用水路の名前は河川名で呼ばれるものが少なくない.庄内平野南部の青竜寺川、中川、内川や、横手盆地の大宮川、津軽平野の庄司川、六羽川、江合川の内川、利根川水系の広瀬川、桃ノ木川、矢場川、加治川の新発田川などがその例である·東北日本の扇状地の開発は、主要な部分が中世に開発しつくされ、厳しい水利慣行さえ成立させた。しかし、中世の東北日本の開発では、取水地点に技術 的展開はあったものの、河川処理の立場からみればそれほどみるべきものはない.河川処理を加えて、大規模な開発が実行されるのは、近世初期からである。
近世の新田開発の対象地は、古村の再生産を維持する採草地、近代的な河川管理の概念でいえば洪水調節地とデルタの水腐地に相当する、河川の乱流と自然堤防の分布した低湿地および湖沼地帯、あるいは下流デルタの干潟などである。地形的には、湖沼、低湿地の多い東北日本では湖沼干拓を中心とした開発が行われ、西南日本では干潟を主にした海面干拓を中心に新田開発が進められた。そして、東北日本に多く分布する洪積台地や西南日本の火山灰地などは、近世では開発不可能地とされて近代の新田開発対象地としてもちこされた·
新田開発の内容は、水田が基本である、徳島のアイ、山形の紅花、大坂の綿などの特殊な換金作物、あるいは都市近郊野菜、果樹などを除けば、水田にできない場合、つまり、灌漑の不能地が畑地とされた。畑地として最も多い桑畑は、常襲氾濫地または灌漑不能地に区分できる·常襲氾濫地で最も一般的なのは、盆地出口の河川氾濫が常襲的に、しかも長期に及ぶところで、高桑を優先させて水害に強い土地利用を展開した。
したがって、新田開発は用水路整備と強く結びついた.用水路整備の方式は、溜池がかりの場合を除いて3様式に分類できる.その1つは、河川、あるいは旧河川跡を利活用する方式である·荒川の熊谷扇状地に展開する六堰や常願寺川扇状地、黒部川扇状地、神通川扇状地、夜間瀬川扇状地、庄川扇状地、馬見ヶ崎川扇状地、松川扇状地などの扇状地における分派川の利用、利根川水系の中川、庄内古川、会の川、西鬼怒川など扇状地デルタに展開する河川中流平野の乱流部における乱流河道の利用や河川の馴化など、最も多い用水路開発の様式である。他の1つは、洪水氾濫とは無縁な、いわば流域変更ともいうべき方式である·関川の上江用水、中江用水、信濃川の東新大江、釜無川の徳島堰、最上川の北楯大堰、最上川支川白川の六ヶ村堰、長堀堰、雄物川支川玉川の御堰、米代川のニッ井穴堰、岩木川の杭止堰、平川支川三ッ目内川の道川堰、浅瀬石川の新屋堰、町井堰などの、扇状地面を横断して開削した用水路や山麓をぬって開削した用水路、渡良瀬川の岡登用水や北上川の寿安堰、奥寺堰、照井堰など降起扇状地面に隧道や堰上げによって揚水を果した用水路、鬼怒川の江連用水、多摩川の玉川上水、物部川の山田堰など、洪積台地や河岸段丘上位面を開削した用水路などで、これらの中には高度な測量技術や鉱山技術を活用したものが少なくない。さらに、他の1つは、筑後川下流や利根川下流のような下流デルタ地帯で、クリーク灌漑や潮汐の干満を利用したアオあるいはエソマと呼ばれる取水(塩水くさびを利用した灌漑方式)に基づく用水路の整備、小貝川の関東三大堰(福岡堰、岡堰、豊田堰)などでみられる溜井形式(堰上げによって広い河道や用水路の水位を上昇させ、その上部を取水する)による用水路の整備など、高度な水利技術を生みだした用水開発といえる.
(3)新田開発の形態
江戸時代の新田開発は、次の4形式によって実施された.すなわら、代官見立新田、町人請負新田、村受新田、切添新田である·代官見立新田は、江戸時代初期から幕府が最も奨励した方式で、代官が新田開発地を調査·検出し、勘定奉行所の許可を受けて村受が町人請負に委ねて普請する.代官は、新田物成の1/10を1代限り与えられる.町人請負新田は、最初の幕政改革である享保改革から出現した.新田開発を重要農政としてとりあげ、1722年(享保7)に江戸日本橋の高札をもって発した新田開発令による.この高札によって、新田開発の査定が勘定奉行所に集中していたのを分散させ、京都と大坂の町奉行所および江戸町奉行所に担当地域を指定して開発願書を処理させ開発の迅速化を図った。それまで抑圧していた商業資本との提携とあいまって、江戸時代中期の新田開発興隆を促した。村受新田は、惣百姓が支出する開発費と労力によって開発される新田で、惣百姓の自営耕地の拡大増加を目的とするための開発を持添新田、惣百姓の分家を目的とした新村建設のための開発を子持新田と称した。切添新田は、本田の地続を切開く開発方式である、ややもすると隠田となったり、新田の租税、売買、所有などが本田に比して自由であったため、本田に必要な採草地が減少し、有力な農家や町人による土地合併を助長するなどの弊害が生じたしかし、幕府と諸藩は、その収入源増加を見込めることか ら、これらの開発は江戸時代を通じて活発に行われた.
新田開発の規模の面でみれば、扇状地の用水開発、河川中下流平野の湖沼干拓、干潟の海面干拓が活発に行われた江戸前期から中期に、大規模な新田開発が集中した。江戸時代後期には、町人資本や農民の手による開発が中心となり、小規模な新田開発が多数行われた.
日本の国土利用の原型ができあがった江戸時代は、懸案事項を残しながらも、機械揚水を採用しない段階での新田開発を完了した時代ともいえよう.とりわけ、江戸時代に熟した新田開発を水資源開発の側面からみると、慣行水利権の確立期に相当することになる。そして、日本の河川は、渇水流量まで開発しつくされ、近代の新規水需要者は新たに水源施設を構築しなければならないという水資源開発の基本型を形成した時代ということになる.
(4)上水道の整備
新田開発や安定した灌漑用水を確保するために用水路の整備が活発に実施された江戸時代は、一方で城下町を中心とした都市形成の時代でもあった。そのため、上水の開発も著しい展開をみせた.
わが国に初めて飲用を主とした水道が敷設されたのは、1590年(天正18)江戸小石川の上水で、神田上水のもととなった。その後、水源を多摩川の羽村に選定して江戸市内に導水した水道が1654年(承応3)の玉川上水で、幹川水路延長と給水量の規模は江戸時代最大である·諸藩においても、次々と水道が開設され、近江八幡水道、赤穂水道、中津水道、福山水道、桑名御用水、高松水道、屋久島水道、亀有水道、青山上水、水戸笠原水道、名古屋巾下水道、三田上水、長崎倉田水樋、宇土轟水道、千川上水、長崎出島水樋、鹿児島水道、曾屋水道、大津寺内用水、久留里水道、越ヶ浜水道、箱館願乗寺川、神奈川宿御膳水など一般飲用に供することを目的とした。一般飲用を目的としたとはいえ、灌漑用に利用しなかったのではなく、神田上水、玉川上水でも灌漑用にも供し、他の上水も同様であった、しかし、城内の要塞や特定の場所に飲用を供することを厳重な目的とし、水量に余裕がある場合にのみ余剰水として分水した上水道もある.鳥取水道、金沢辰巳用水、長崎狭田水樋、長崎西山水樋、玉里邸水道、指宿旧水道、磯集成館水道、五稜郭上水などがその事例である·一方、むしろ灌漑用との兼用を主目的とした上水道もある。江戸時代前に存在していた小田原早川上水や甲府用水のほかに、富山水道、福井芝原用水、駿府用水、米沢御入水、仙台四ッ谷堰用水、佐賀水道、豊橋牟呂用水、郡山皿沼水道、花岡旧水道、大多喜水道などがあげられる·
水田灌漑を目的とした用水整備は、明治以降現代に至るまで地域の基幹施設として継承されているものが多い。それに反して、飲用を目的とした上水道は、明治新政府によって導入された近代上水道に転換され、江戸時代のまま、あるいは改良して利活用されているものは多くない。