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江戸時代の国土開発

五街道の整備

わが国の交通体系の整備は、水上交通より陸上交通が先んじた.水上交通は、自然に則して発展し、本格的な整備が実施されたのは中世を経て近世になってからである.

陸上交通の整備は、律令国家の五畿七道の制が嚆矢とされている。全国に五畿(大和、山城、河内、摂津、和泉)七道(東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海)の行政区画を制定したことから、京都を中心に各国府に連なる放射状の官道が設けられた。それらの官道は大·中·小に等級づけられ、山陽道を大路、東海道、東山道が中路、その他を小路としたが、それらの実体は定かでない·

中世になると、鎌倉を中心とした鎌倉街道が整備された·さらに近世になると、参勤交代の便や商業の発達により、交通施設整備の必要性はいっそう高まった.

そこで幕府は、江戸市中の日本橋を起点に幹線道路として五街道を整備した·五街道とは、東海道(日本橋京都)、中山道(日本橋高崎岐阜京都)、奥州道中(日本橋宇都宮白河)、日光道中(日本橋宇都宮日光)、甲州道中(日本橋甲府下諏訪)で、街道には、宿駅が整った.江戸と京都を結ぶ表通りと称される東海道には、品川から京都まで53次があった。一方、裏通りたる中山道は、木曽街道とも呼ばれ、板橋から上野、信濃、木曽谷を経由して美濃、近江に入り、草津宿で東海道に合流した·この間を中山道という場合と、さらに延長して京都までを指す場合とがあり、板橋から京都まで69次が並置された.中山道は、加賀金沢、越後高田などの大名34家が参勤交替に利用し、北陸、信濃、江戸の交通を主とした·東照宮が鎮座し、日光奉行もおかれた日光道中は、千住から鉢石まで21次があった(なお、本街道とは別に、小山壬生鹿沼今市の壬生街道、日本橋川口岩槻幸手の御成街道が整備された).また、中山道に合する甲州道中は、内藤新宿から甲府まで38宿で、さらに6宿を加えて下諏訪に至った.江戸防衛の要所として甲府が重要視されたことから、甲州街道が五街道の一つに加えられた。しかし、交通量は比較的少なく、参勤交替など利用する大名も、わずか3家にすぎなかった。日本橋から陸奥白河まで33宿を数える奥州道中は、厳密には宇都宮まで日光道中と重複し、その間を除いて、宇都宮から白河までを指す場合もある.

これらの街道には、軍事、治安の見地から要所ごとに関所を設けたため、一般人には不便をきたした·特に商人などは、不便をさけて脇街道を利用することも多かった。このうち、伊勢路(東海道四日市伊勢山田)、佐屋路(尾張岩塚佐屋桑名東海道)、美濃路(名古屋大垣中山道垂井)、中国路(大坂豊前小倉)、水戸道(武蔵新宿常陸~水戸)などの脇往還が最も重要とされた。

こうした五街道と脇街道によって、全国幹線陸上交通路網が完成していた。これらの街道に対して、幕府は、強い関心を示した。

1659年(万治2)、道中奉行をおき街道の制度を定めて幅5間とし、36町ごとに一里塚を設け、並木を図り、駄賃を制定して利用者の便を図った.街道はできるだけ平坦にして、山中で切り下げを図ったところも少なくない。特殊な場合として大分県耶馬渓には、僧禅海により青の洞門が高さ2丈·幅3丈·長さ100間余の規模で1720年(享保5)から1750年(寛延3)の年月をついやして建造されている·悪路として箱根の険路などがあげられるが、路面は比較的よく整えられ、平戸や長崎などでは切石により舗装されたところもあった。また、大津と京都、京都と伏見の間では往来がとりわけ頻繁で、牛車利用がめだった。そのため、牛車道と人馬道が区別され、牛車道には白河石を用いた舗装が整えられた.江戸時代末には大津~京都で大改修が実施され、溝を切り込んだ軌道が牛車用に設けられた.

街道の整備に応じて橋の建設も進んだ.一般的には桁橋であったが、構造的な変化も生れた.1673年(延宝元)の錦帯橋や九州各地で石造りアーチ橋が架けられた、そして幕府は、街道並木の整備と維持管理をとりわけ熱意を傾けて実施した.

街道並木は、緑陰の提供が重要な目的の一つと考えられた。さらに、並木による寒暑の調節の役割も重視した、そして並木に、道路敷の明示と保全の役割をも課した.そのほか、防風、防雪、防砂などの効用を含めて多目的な施設として幹線交通路の便宜に供した·

幕府が整備、維持、管理した五街道と脇街道では、実用的効用が強調された·この実用的効用を求めた高木植栽は、東海道の松並木、日光街道の杉並木など現在でも随所に残っている·現存のこうした高木並木は、良質な風景として史蹟や名勝となっている。つまり実用的効用を強調した近世の街道並木が、現代では貴重な風景づくりの遺産として評価されている·

1601年(慶長6)、幕府が東海道に53次の伝馬の制を定めてから、多くの人々の往来に供するために五街道の整備が精力的に進められた·その起点たる日本橋は1603年(慶長8)2月に架けられ、その後現代に至るまで、国道の起点とされている·

新田開発と用水路

(1)新田の分布

低湿地や荒地、あるいは河川や海浜の寄洲の干拓などによって得た土地は、墾田と呼ばれていたが、江戸時代には新田と称した·

江戸時代初期の藩政確立の諸課題のうち、生産物地代の確保が最も重要視された.そのため、全国的に歴史上最も新田開発が活発に実施された時代とされている·国土開発の技術的視点からみれば、江戸時代中期の新田開発のピークに、わが国の国土利用の原型がかたちづくられた時代とも評されている。

水田稲作技術の導入以来平安初期までに開拓された耕地面積は、わが国最古の耕地統計となる「倭名類聚抄」(和名抄)をもとに、近世反別換算でおよそ104万町歩と推定されている·1598年(慶長3)の太閣検地からの推定では、206万町歩の耕地面積といわれる。したがって、800年間に102万町歩の耕地拡張が行われたことになる。ところが、1873年(明治6)の地租改正を目的とした旧反別調査では、323万町歩が記録されている。このことから、江戸時代の新田開発は、古代から中世にいたる期間のわずか1/3に相当する275年間で117万町歩にも及んだことになる。これを新田率で表現すれば、中世の新田率は50%、近世では64%に達したことになる·1645年(正保2)の55180村に対して、1873年には70026村と記録されているので、228年間に14846の新村がつくられ、近世の新村率は78%にも及んだことになる.これら新田開発に伴って成立した地名には、特徴的な名が付けられている。最も多いのが「新田」で、そのほかの地名も集団的に分布している.荒野、興屋、興野、幸谷、新屋敷、荒屋敷、 出在家、新町、新宿、新開、新、開、啓、新涯、新ヶ江、開作、牟田、新地、籠、搦、開田、開墾などがある.また、本村の地名に新を付記した地名もある。あるいは、地域によっては特殊な地名が分布しているところもある.津軽平野では、江戸時代初期の新田開発を「派立」と呼び、江戸時代後期の開拓地に新田名を付記している·庄内平野では、赤川や大山川流域に京田、興屋の地名が列状に並んでいる.そして、最上川デルタ地域には新田が多く分布している.ここでは、京田が慶長以前の開発地、興屋は慶長年間から元和年間の開発地、また新田は寛永年間以降の開発地名となっている。

(2)河川と用水路

日本列島を地学的に東北日本と西南日本に区分してみれば、稲作を主軸とする生産経済は、西南日本から導入·普及が進み、古代には西南日本に広くいきわたった.中世になると、すでに西南日本では開発候補地が限界に近くなり、既耕地の反当り収量の増加、二毛作の進展、換金作物の栽培など、新規耕地の開発よりむしろ農業技術発展の方向がみられた。西南日本に対して東北日本では、河川の規模が大きく、河川の乱流の下に平野部には湖沼の多い湿原が広く分布しているため、古代の技術では対応が困難で開発が遅れたが、中世になると広大な開発可能地となった。また、北陸や東海地方の扇状地を含めて、東北日本の扇状地河川部分で大規模な用水路が整備され、本格的な扇状地開発が進展した。これらの開発では、扇面に多くの派川を分岐していることが基本的な条件で、分派川をもとに自然発生的な農業用水路が整っていった.自然河川のままで用水路の役割を果していたことから、中世に整備された用水路の名前は河川名で呼ばれるものが少なくない.庄内平野南部の青竜寺川、中川、内川や、横手盆地の大宮川、津軽平野の庄司川、六羽川、江合川の内川、利根川水系の広瀬川、桃ノ木川、矢場川、加治川の新発田川などがその例である·東北日本の扇状地の開発は、主要な部分が中世に開発しつくされ、厳しい水利慣行さえ成立させた。しかし、中世の東北日本の開発では、取水地点に技術的展開はあったものの、河川処理の立場からみればそれほどみるべきものはない.河川処理を加えて、大規模な開発が実行されるのは、近世初期からである。

近世の新田開発の対象地は、古村の再生産を維持する採草地、近代的な河川管理の概念でいえば洪水調節地とデルタの水腐地に相当する、河川の乱流と自然堤防の分布した低湿地および湖沼地帯、あるいは下流デルタの干潟などである。地形的には、湖沼、低湿地の多い東北日本では湖沼干拓を中心とした開発が行われ、西南日本では干潟を主にした海面干拓を中心に新田開発が進められた。そして、東北日本に多く分布する洪積台地や西南日本の火山灰地などは、近世では開発不可能地とされて近代の新田開発対象地としてもちこされた·

新田開発の内容は、水田が基本である、徳島のアイ、山形の紅花、大坂の綿などの特殊な換金作物、あるいは都市近郊野菜、果樹などを除けば、水田にできない場合、つまり、灌漑の不能地が畑地とされた。畑地として最も多い桑畑は、常襲氾濫地または灌漑不能地に区分できる·常襲氾濫地で最も一般的なのは、盆地出口の河川氾濫が常襲的に、しかも長期に及ぶところで、高桑を優先させて水害に強い土地利用を展開した。

したがって、新田開発は用水路整備と強く結びついた.用水路整備の方式は、溜池がかりの場合を除いて3様式に分類できる.その1つは、河川、あるいは旧河川跡を利活用する方式である·荒川の熊谷扇状地に展開する六堰や常願寺川扇状地、黒部川扇状地、神通川扇状地、夜間瀬川扇状地、庄川扇状地、馬見ヶ崎川扇状地、松川扇状地などの扇状地における分派川の利用、利根川水系の中川、庄内古川、会の川、西鬼怒川など扇状地デルタに展開する河川中流平野の乱流部における乱流河道の利用や河川の馴化など、最も多い用水路開発の様式である。他の1つは、洪水氾濫とは無縁な、いわば流域変更ともいうべき方式である·関川の上江用水、中江用水、信濃川の東新大江、釜無川の徳島堰、最上川の北楯大堰、最上川支川白川の六ヶ村堰、長堀堰、雄物川支川玉川の御堰、米代川のニッ井穴堰、岩木川の杭止堰、平川支川三ッ目内川の道川堰、浅瀬石川の新屋堰、町井堰などの、扇状地面を横断して開削した用水路や山麓をぬって開削した用水路、渡良瀬川の岡登用水や北上川の寿安堰、奥寺堰、照井堰など降起扇状地面に隧道や堰上げによって揚水を果した用水路、鬼怒川の江連用水、多摩川の玉川上水、物部川の山田堰など、洪積台地や河岸段丘上位面を開削した用水路などで、これらの中には高度な測量技術や鉱山技術を活用したものが少なくない。さらに、他の1つは、筑後川下流や利根川下流のような下流デルタ地帯で、クリーク灌漑や潮汐の干満を利用したアオあるいはエソマと呼ばれる取水(塩水くさびを利用した灌漑方式)に基づく用水路の整備、小貝川の関東三大堰(福岡堰、岡堰、豊田堰)などでみられる溜井形式(堰上げによって広い河道や用水路の水位を上昇させ、その上部を取水する)による用水路の整備など、高度な水利技術を生みだした用水開発といえる.

(3)新田開発の形態

江戸時代の新田開発は、次の4形式によって実施された.すなわら、代官見立新田、町人請負新田、村受新田、切添新田である·代官見立新田は、江戸時代初期から幕府が最も奨励した方式で、代官が新田開発地を調査·検出し、勘定奉行所の許可を受けて村受が町人請負に委ねて普請する.代官は、新田物成の1/10を1代限り与えられる.町人請負新田は、最初の幕政改革である享保改革から出現した.新田開発を重要農政としてとりあげ、1722年(享保7)に江戸日本橋の高札をもって発した新田開発令による.この高札によって、新田開発の査定が勘定奉行所に集中していたのを分散させ、京都と大坂の町奉行所および江戸町奉行所に担当地域を指定して開発願書を処理させ開発の迅速化を図った。それまで抑圧していた商業資本との提携とあいまって、江戸時代中期の新田開発興隆を促した。村受新田は、惣百姓が支出する開発費と労力によって開発される新田で、惣百姓の自営耕地の拡大増加を目的とするための開発を持添新田、惣百姓の分家を目的とした新村建設のための開発を子持新田と称した。切添新田は、本田の地続を切開く開発方式である、ややもすると隠田となったり、新田の租税、売買、所有などが本田に比して自由であったため、本田に必要な採草地が減少し、有力な農家や町人による土地合併を助長するなどの弊害が生じたしかし、幕府と諸藩は、その収入源増加を見込めることから、これらの開発は江戸時代を通じて活発に行われた.

新田開発の規模の面でみれば、扇状地の用水開発、河川中下流平野の湖沼干拓、干潟の海面干拓が活発に行われた江戸前期から中期に、大規模な新田開発が集中した。江戸時代後期には、町人資本や農民の手による開発が中心となり、小規模な新田開発が多数行われた.

日本の国土利用の原型ができあがった江戸時代は、懸案事項を残しながらも、機械揚水を採用しない段階での新田開発を完了した時代ともいえよう.とりわけ、江戸時代に熟した新田開発を水資源開発の側面からみると、慣行水利権の確立期に相当することになる。そして、日本の河川は、渇水流量まで開発しつくされ、近代の新規水需要者は新たに水源施設を構築しなければならないという水資源開発の基本型を形成した時代ということになる.

(4)上水道の整備

新田開発や安定した灌漑用水を確保するために用水路の整備が活発に実施された江戸時代は、一方で城下町を中心とした都市形成の時代でもあった。そのため、上水の開発も著しい展開をみせた.

わが国に初めて飲用を主とした水道が敷設されたのは、1590年(天正18)江戸小石川の上水で、神田上水のもととなった。その後、水源を多摩川の羽村に選定して江戸市内に導水した水道が1654年(承応3)の玉川上水で、幹川水路延長と給水量の規模は江戸時代最大である·諸藩においても、次々と水道が開設され、近江八幡水道、赤穂水道、中津水道、福山水道、桑名御用水、高松水道、屋久島水道、亀有水道、青山上水、水戸笠原水道、名古屋巾下水道、三田上水、長崎倉田水樋、宇土轟水道、千川上水、長崎出島水樋、鹿児島水道、曾屋水道、大津寺内用水、久留里水道、越ヶ浜水道、箱館願乗寺川、神奈川宿御膳水など一般飲用に供することを目的とした。一般飲用を目的としたとはいえ、灌漑用に利用しなかったのではなく、神田上水、玉川上水でも灌漑用にも供し、他の上水も同様であった、しかし、城内の要塞や特定の場所に飲用を供することを厳重な目的とし、水量に余裕がある場合にのみ余剰水として分水した上水道もある.鳥取水道、金沢辰巳用水、長崎狭田水樋、長崎西山水樋、玉里邸水道、指宿旧水道、磯集成館水道、五稜郭上水などがその事例である·一方、むしろ灌漑用との兼用を主目的とした上水道もある。江戸時代前に存在していた小田原早川上水や甲府用水のほかに、富山水道、福井芝原用水、駿府用水、米沢御入水、仙台四ッ谷堰用水、佐賀水道、豊橋牟呂用水、郡山皿沼水道、花岡旧水道、大多喜水道などがあげられる·

水田灌漑を目的とした用水整備は、明治以降現代に至るまで地域の基幹施設として継承されているものが多い。それに反して、飲用を目的とした上水道は、明治新政府によって導入された近代上水道に転換され、江戸時代のまま、あるいは改良して利活用されているものは多くない。

港湾整備と地域振興

(1)中世までの港湾整備

わが国の本格的な港湾整備は、平清盛による大輪田の築港工事といわれている。大輪田の港は、すでに古代から碇泊地として重要な役割を果している.僧行基は、難波の河尻、大輪田、魚住、韓、室の泊地を五泊の制として整えた。その後、朝廷によって修築が繰り返され、1173年(承安3)、清盛によって大輪田泊に大規模な防波堤が築造された。この防波堤築造にあたって、石ごとに経文の文字を書きつけて永久安泰を祈ったことから、防波堤は経ヶ島と呼ばれている。五泊の制が表わすように、瀬戸内海は古代から交通の中心となってきたが、清盛も瀬戸内海交通を重視し、音戸の瀬戸を開削するとともに大輪田泊の築港工事に意を用いた。大輪田泊の整備は、中国·四国·九州の租税米の輸送を中心とした物流をこえて、栄貿易の拠点、さらに福原遷都の都市づくりと一体をなしていたといわれている。

鎌倉幕府が成立すると、1232年(貞永元)に源頼朝は鎌倉材木座付近に港湾をつくった。後に和賀江島と称されている。そして、京都と鎌倉の2つの中心地を擁したことから、東海道交通が盛んとなり、一方荘園からの年貢や重量物資は水上輸送を必要としたことから瀬戸内海はもとより全国で港湾が発達した。とりわけ、兵庫、尾道、博多、大湊、敦賀などが重要な港として活性化し、港町としての整いをみせて問丸(問屋制のもと)の活動も活発となった。

「三津七湊」の表現もあり、廻船の重要港として伊勢の安濃津、筑前の博多、和泉の堺を三津、越前三国、加賀本吉、能登輪島、越中岩瀬、越後今町、出羽秋田、陸奥津軽十三湊を七湊とした。三津七湊にみられるように、瀬戸内海への連絡とともに琵琶湖から淀川を使う交通を中心に日本海の水上交通が栄えた.

中世後期になると、港湾を中心とした都市はますます発展した.堺港は自由港都市の面影をもって、通商·文化の面で高い地位を有するようになり、東海の大湊は幕府の保護の下に海権を掌握して有力な商人が集まり、外国貿易も活発に行った。北陸の小浜は、応仁の乱以後京都に対する交通の要地として軍事的にも重視され、敦賀に代って若狭の要港となり、琵琶湖の今津と大津をつなぐ拠点として栄えるようになった。中世都市の最多数を占める港町は、瀬戸内海に最も多く分布し、北九州、淀川、琵琶湖がこれに次ぐ分布を示した。これらの先進地域に対して、新たに水上交通を念頭に米の生産地との連絡および商品輸送、さらに軍事的要所として港湾整備を実施したのが、江戸湾に面した金沢湊である.鎌倉幕府が周囲に生産地を有していない欠点を補って、鎌倉とは三浦半島の反対側になる金沢に港を築き、江戸湾とそれに連なる利根川水系全体を掌握可能とした。鎌倉と金沢の間は、距離は短いものの山間部が連続していたため、「朝比奈の切通し」などの大工事を実施して街道の整備を行った.港町金沢は、中世を通じて鎌倉よりもむしろ関東の中心的役割を果した。

(2)江戸時代の河川舟運

江戸幕府が成立すると、水上交通は一段と飛躍した。その飛躍は、2つの点からささえられていた。第1点は、河川舟運体系の整備で、他の1点は海航の整備である。

河川舟運は、江戸時代に体系化された。この体系化は、河川を単位として形成された。河川流域を社会·経済の圏域として、河道·運河を舟運交通路に利用した。したがって、流域圏の広狭は、社会·経済の強弱に強い影響を与えた.新しく形成された江戸の町の繁栄も、最大の流域圏を有する利根川を背景にしていた·流域圏の中には、多くの河岸(河湊)が出現し、下流の河岸は流域圏の中心的存在として都市を形成した·わが国の国土は、多数の河川を有している·そのため、多数の流域圏に分割された国土の中に、それぞれの流域ごとに舟運を重要な交通運輸の手段とする内陸水上交通体系が整えられた.しかし、それらの交通路は、他の流域圏と連絡することはなく、阿武隈川から北に海岸線を走る貞山堀など流域変更と呼ばれる水路建設の場合をむしろ特例として、一般には流域内の連絡にとどまった。

幕府や諸藩は、河川舟運にことのほか執着を示し、1603年(慶長8)には徳川家康によって過書(過所)奉行が淀川におかれた.その後の淀川舟運体系の整備は、流域に高度な生産地を擁し、伝統的産業と先端的産業の発生地でありかつ高い水準の文化·芸術を有する伏見·洛中·京都と、流通産業および大衆的文化の中心地となった大坂を連絡することにより、江戸をこえた経済力を維持発展させた。しかし一方で、水都大坂の発展と1704年(宝永元)の大和川の付替えにより、それまで繁栄を続けてきた堺港が衰退した。

(3)東廻り海航と西廻り海航

河川ごとの舟運体系をつないで全国的な交通体系に昇華させたのは、海航の制定である.1670年(寛文10)、河村瑞軒が幕命を受けて東廻り海航を制定した。瑞軒の制定した東廻り海航は、阿武隈川河口荒浜から江戸に至る航路で、東廻り海航全体の中ではおよそ半ばにすぎない。また、瑞軒が新たに開発した航路でもない。しかし、この大策以降、津軽、秋田、仙台から江戸への海上輸送が急増し、東廻り航路全体に強い刺激を与えた、寄港地の選定のほか烽火をあげて船の目標に供したり、難所には水先案内をおき、立務所を設けて積荷の安全性の管理、舟の監視と修理、難破の取扱方法などを担当させ、輸送舟の保護令や舟形や舟員の厳選に至るまで、従来の投機的な輸送傾向から、安全で大量の物資を運ぶという輸送への合目的性への追究がなされた.この点に、荒浜~江戸の限定航路をこえて、わが国海運史上に残る「東廻り航路」の設定と呼ばれるゆえんがある.

東廻り海航の制定は、東北·関東における地域開発の基軸となったが、さらにひきつづいて行われた西廻り海航の制定も重大な意義をもった。西廻り海航は、最上川河口の酒田から日本海、瀬戸内海を経て江戸に至る航路で、東廻り海航よりはるかに多くの河口港を包括した。西廻り海航の制定は、中世からの廻船にも活性化を与え、江戸~大坂の菱垣廻船と競って楢廻船も登場した.

東廻り、西廻りの海航は、江戸と北国、奥羽の交流を強め、日本海側の港町を繁栄させ、瀬戸内海、東海の交易を発展させた。そして、河口港を中心に各河川の舟運をさらに活発化させ、日本海と琵琶湖を直接連絡させる運河開削計画や琵琶湖と伊勢湾の通航を企てる計画などが続出し、東廻り海航制定後にとりわけ活発となった那珂川霞ヶ浦印旛沼~江戸などの関東運河計画とともに、西廻り海航が舟運開発の先導的役割を担ったことを示している。 港湾修築の技術的な面でも、多くの優れた内容をのこした。北上川河口に開いた石巻港は、川村孫兵衛の達見をもとにしている·土佐から室戸岬を廻って大坂に至る航路に開発した手結港、津呂港、室津港は、避難港の目的も備えて野中兼山により修築された、とりわけ、手結港、津呂港は、岩の上で芋の茎を焼かせて大岩を砕いたり、アーチ形の堤防を海中に築くなどの工夫をこらしたわが国最初の掘込み港湾といわれている。

江戸時代に国内輸送を発展させ、商品物資の活性化に大きな役割を果した港町は、現代に至るまで地域の拠点都市として継承されている.33000kmに及ぶ長い海岸線の特性を、今日では1100もの港湾法上の港により、世界に類をみない港の密度で有効性を高め、効果的に産業を発展させている。その意味では、臨海都市を拠点とする近年の地域振興の方向は、江戸時代に整備された港と深くかかわっているといえよう。

河川改修

戦国武将の治水

近世の河川改修は、新田開発の活発化、舟運の繁栄、城下町の形成を時代的背景として大規模に実施された.とりわけ、戦国時代末期~江戸時代初期にわが国河川社会史の上で著しい画期があった。

1589年(天正17)、加藤清正は菊池川の改修に取り組んた.菊池川下流干潟の干拓を主目的に、唐人川を締め切り、現在の河道である新川を開削した。唐人川には、大洪水の一部を排除することとし、支川の木葉川筋と本川筋に2か所の遊水地を設け、さらに木葉川には乗越堤を築いて洪水を一時耕地に氾濫させる手段をとった.新しく切り開いた河道には、67か所に及ぶ石造りの水制を設け、8か所の轡塘(霞堤)を築造した·

菊池川の改修が完了するのを待つまでもなく、1603年(慶長8)清正は白川の改修に着手した·白川は、熊本で北から流れる坪井川を合流していたが、熊本城築造にあたって白川の水害を防ぎ、舟運の便を得るため、坪井川を付け替えた。坪井川の流れを変えて熊本城の外壁を曲流させ、井芹川の流路を南に移して坪井川に合流させた。そして、白川と坪井川を石塘と称する背割堤で分離し、坪井川は下流で井芹川旧河道に落とした·坪井川と白川は、石造りの背割堤脚部の暗渠によって、白川洪水の際には坪井川に、坪井川増水時には白川に排出するように仕組まれた·また、立田口水制を設けて、熊本城対岸に洪水を誘導した。

徳川家康が伊奈備前守忠次の進言を受入れて建造したと伝えられている木曽川左岸の御囲堤、別名伊奈備前堤は、尾張側と美濃側の対立を決定的にした河川改修であった.1608年(慶長13)に着工して、翌年完工した御囲堤は、犬山から河口近くの弥富までの12里にわたって築造したもので、軍事上の目的を重視しながら、尾張側を洪水から守ることをも主目的にした·名古屋城が完成し、豊臣氏が滅亡すると、洪水に対する目的に重点が強化され、同時に自然発生的に使用していた分派川の一の枝、二の枝、三の枝を整備して農業用水路の体系をつくった.これらの用水路は、のちに宮田用水、木津用水へと、さらに高度な水利体系に昇華した·不必要な水は右岸側に氾濫させ、必要な水は左岸に取水し、さらに舟運の権益を加えて、尾張藩は木曽川を掌握した。

武田信玄が、1542年(天文11)の洪水を契機に展開した河川改修は、甲府盆地の水害を防ぎ、生産基盤整備を促した。この河川改修は、甲府盆地を流れる釜無川扇状地の扇頂付近を中心に行われた·釜無川支川御勅使川に新河道を開き、石積水制により洪水を分流させた.分流した洪水は、釜無川に合流してからすぐに塩川の合流と出会う.3川の洪水は互いにもみあいながら十六石の水制に導流されて釜無川左岸竜王の高岩につきあたる.高岩の山付からは、信玄堤と呼ばれる霞堤形式の堤防群が配置され、それらの前面に土出しや石出しの水制と水害防備林が付設され、高岩につきあたった洪水を旧御勅使川合流点へ導いた。

山形県赤川の扇状地も、近世初期に活発な河川改修を行った·扇状地の河川改修は、ほかに最上川上流米沢盆地の松川や鬼面川、中流村山盆地の馬見ヶ崎川などや、大井川、加治川、嘉瀬川、香東川、庄川、常願寺川、秋田県横手盆地の雄物川·皆瀬川·成瀬川の3川をめぐる整備、矢作川などがある.下流平野の河川改修には、宮城県鳴瀬川支川吉田川の穴川開削や木曽川の佐屋川放水路、徳島県吉野川の堀川開削、福岡県遠賀川の堀川放水路、岡山県旭川の百間川放水路などがある。そして、利根川、北上川の大規模な瀬替工事が近世の河川改修を代表している。

北上川下流の仙北平野は、流路の変遷をたどることが最も困難な河川である。そのため、河川改修の経緯は難解で、追究すべき課題が多い.1605(慶長10)~1610年、伊達政宗は、北上川を浅水村水越から新川を開いて左変させ、大きな蛇行を経て二股川の流路に落した·ここで小流を入れて南流し、現在の新北上川を流れて相野谷地先で迫川の流路に入れた.この流路は急流のため、北上川舟運にとって有効でなかった。そこで、1615(元和元)~1623年、柳津で2分流する北上川の一派川を締切り、南西へ流させて猪岡短台地先で迫川に合流させた.さらに、鹿又から石巻に至る新しい河道を開いて河口を追波湾から移した。一方、猪岡短台の丘陵地を開削して江合川を付け替え、北上川に合流させた.北上川と迫川、江合川が合流した下流は、丘陵地を和淵·神取の間で切り開いてここに河道を引き入れ、狭窄部を設けた。この狭窄部によって、5000町歩に及ぶ広大な遊水地が計画的に出現し、さらに上流部の北上川沿川はもとより、迫川、江合川への逆流による激しい水害をもとに、上郷の登米·遠田郡と下郷の桃生郡との間には厳しい利害対立が生じた·しかし、北上川下流の瀬替による大規模な河川改修により、北上川舟運が整備され、江戸廻米をとり入れた伊達藩の新田政策をもとに仙北平野の沼沢地の開発が進んだ.

(2)利根川東遷

利根川は、近世以来最も活発に人為が加えられた河川として知られている·近世初頭の利根川は、埼玉県羽生市から栗橋町付近の間で、南に北に激しく合流·乱流を繰り返し、渡良瀬川の南流を加えて複雑な様相を呈していた.利根川と渡良瀬川は、錯綜しながら現在の江戸川、中川筋を南下し、埼玉県越ヶ谷付近で荒川を合流し、東京湾に注いでいた.この流れの東側には、現在の利根川下流に相当する鬼怒川、小貝川の流れがあり、霞ヶ浦と連絡しながら銚子で太平洋に注いでいた.2つの流れ、すなわち利根川水系と鬼怒川水系の結びつきにより、群馬県前橋市で関東平野に流れ出した利根川が、直接太平洋に流出するようになった.この変遷は、「利根川東遷物語」と呼ばれ、1594年(文禄3)の会の川締切りを端緒として、1654年(承応3)の赤堀川の開削をもって、60年間の歳月を要した瀬替構想を完結したという説である·会の川締切りは、利根川の南東流を東に向かわせるもので、赤堀川の開削は洪積台地を切ってさらに東へ向かわせて鬼怒川水系と結びつけるための新河道である。この間に、埼玉県熊谷市で荒川の東流を締め切り、東南に向かわせて入間筋に落した.利根川と荒川の分離である。同じように鬼怒川水系でも、大木丘陵の開削と2か所の合流点を締め切って鬼怒川と小貝川の分離が行われた。これらの分離を含めて、わずか60年で完結したという通説「利根川東遷物語」には多くの矛盾点や不明な点が含まれ、自然史と社会史の両面で難解な河川となっている。むしろ、近世から近代にいたる約300年間に、幾多の河川改修を経ながら洪水の主流の東遷を成立させたと考えることもでき、現在の利根川を理解するうえで、重要な研究課題を提供している。ここでは、私論をさけて、利根川変遷の概要図を示すにとどめる.

利根川変遷史の中で、とりわけ次の2点の理解は欠かせない、その1つは、会の川締切り箇所の上流に、漏斗状に配置されている中条堤を主体とした治水施設である.この施設によって、利根川洪水の大量が遊水調節された·この洪水調節を前提に、利根川東遷と呼ばれる河川工事や農業用水や舟運路の開発が可能となった。他の1点は、1783年(天明3)の浅間山の大噴火である.浅間山の降灰により、利根川の河状は一変し、扱いにくい河川に化した。その結果、治水の面でも利水の面でも、それまでの利根川政策を混乱におとしいれた。

(3)大和川付替え

近世中期には、淀川治水の重要な焦点である淀川と大和川の付替えがある.淀川と大和川の合流付近から流末大坂に至るまで、著しい低湿地が展開している。この低湿地を中心に淀川の出水が広範囲に長期におよんで湛水し、大和川も柏原付近で破堤し河内平野を襲うことがたびたび出現した.そこで、淀川と大和川の分離計画が、すでに古代から試みられ、和気清麻呂も堀江の開削を実施したが途中で中止となった。165558年(明暦年間)の計画も実現せず、1683年(天和3)の運動も河村瑞軒の反対などで実現しなかった.しかし、16881703年(元禄年間)の激しい大和川付替え工事実現への動きとあいまって、1703年(元禄16)、幕府はついに大和川分離の決議をなし、1704年(宝永元)に新大和川が開削され、淀川から分離された。新大和川の完成により、淀川下流の鴻池新田などの開発や農地保全が進み、大坂の発展に大きく貢献した。その一方で、新大和川の開削によって堺港が土砂で埋まり、ついに繁栄を大坂にうばわれた、さらに、狭山池を中心とした古い安定した水田地帯の水利秩序が崩壊し、新たな対立を生じた、洪水をめぐっても、旧大和川筋と新大和川筋の対立も激しくなり、大和川上流盆地には舟運が困難となって諸物価、とりわけ肥料が高騰し、深刻な経済問題をひき起した·

(4)新潟平野の治水

信濃川、阿賀野川、加治川がそれぞれの下流部で合流する低湿な新潟平野でも、近世中期から互いに関連しながら活発な河川改修が行われた·信濃川下流の乱流の整理は、直江兼続の構想といわれる直江工事を基として現在の旧信濃川と中ノロ川を形成した·紫雲寺潟の干拓を直接の契機に、加治川と阿賀野川合流付近からは、砂丘を切って松ヶ崎放水路がつくられた。この放水路によって、阿賀野川の現河道が出現し、舟運路を残して信濃川との事実上の分離が形成された。松ヶ崎放水路は、その後の新潟平野における治水の方向を示し、近代に実現した加治川放水路や大河津分水に強い影響を与えた.

(5)木曽三川の分離

宝暦治水と呼ばれる木曽川、長良川、揖斐川の分離工事も、近世の河川改修を代表する一つである。木曽川右岸側は、わが国の典型的な輪中地帯である.左岸の御囲堤の築造以後、輪中地帯は洪水のしわよせを全面的に受けるようになった·地形的には、さらに木曽川、長良川、揖斐川の順で高く、洪水は三川の合流点を通じて木曽川から長良川へ、長良川から揖斐川へと干渉した。 地形の高低順位とは逆に、降雨は西から東へと移動することが多く、揖斐川、長良川、木曽川の順で遅れて出水する傾向が強い·したがって、揖斐川は長良川の出水によってさらに水位を高め、木曽川の出水は長良川、揖斐川の水位を上昇させ、揖斐川の水位は容易に減水しない。そのため、輪中地帯は深刻な氾濫に悩まされた·木曽三川の分離は、こうした背景をもとに検討され、1753年(宝暦3)12月、幕府が御手伝譜請として薩摩藩に工事を命じたものである。宝暦治水工事は、木曽川と揖斐川の分離のために油島を締め切り(千本松と呼ばれる背割堤)、長良川の洪水と揖斐川の洪水を調節するための人工河道大博川の洗堰、木曽川分派川逆川と長良川の連絡を絶つための逆川締切りがその主要工事であった.

いずれも難工事で、担当した薩摩藩悲劇の物語として知られている.木曽川、長良川、揖斐川の分離は、宝暦治水でも完成せず、近代にその成立をみた·

近世中期以降、淀川、信濃川、木曽川水系のほか、斐伊川の河川改修やその下流穴道湖治水をめぐって開削された佐陀川、新川の放水路工事、あるいは庄内川の新川放水路などもよく知られている。また、農民によって開削された新潟平野の新川放水路、庄内平野の日光川なども特徴的な河川改修である.

都市基盤整備

近世の都市は、戦国時代からの兵農分離の帰結として生れた城下町で、幕府や諸藩の政治的·経済的中心地として全国でいっせいに建設された·東京、大阪、名古屋のほか現在の各県庁所在地の大部分が、あるいは地域の核となっている都市の多くが近世初期の城下町に起因している。

これらの城下町では、城郭の築造、修築をこえて、都市づくりに意を用いたことが、大きな特徴である。そのため、城下町選定にあたっては、要害の地から交通至便な条件が優先し、さらに町づくりに有利な、かつ行政に利便性のあることが考慮された。そこで、伊達藩は岩出山から仙台へ、毛利藩は吉田から広島へ、南部藩は三戸から盛岡へ、土佐藩は豊岡から大高坂を経て、高知へと移った·交通に優れた条件として、河川がとりわけ重視され、都市計画や行政の利便性から、城郭を囲む町は河川氾濫の常襲地や低湿地に接近する方向がとられた。規模の大小を別にすれば、城郭都市形成と舟運路の整備、治水、上水道の開発など、河川改修とは必然的な関連を有した。

城下町が形成されると、いずれの城下町も多くの人口を擁したが、江戸·大坂·京都·堺·長崎を別にして、その人口はおおよそ領内の石高に比例していた.

江戸時代中期の都市では、大坂·京都·堺·長崎などを除けば、武家人口と町方人口がほぼ同数と考えると、江戸はおよそ100万人の大都市を形成したことになる。当時のヨーロッパ先進諸国の都市と比べると、パリ50万人、ロンドン46万人、アムステルダム30万人、ウィーン13万人、ベルリン6万人であり、江戸の都市形成が短期ながら巨大であったことがわかる。しかも、江戸の都市域の約60%は武家地であり、寺社地および町人地はそれぞれ20%にすぎなかったことから、町方の人口密度は極端に大であったことが想定される.

それぞれの城下町は、城郭と上·下級武家屋敷、商家、職人、寺社などの用途地域に整然と区画整理され、現在その町名を残しているものも多い。

城下町の基盤整備にあたっては、舟運·道路·橋·上水道などのほかに、水害·火災などの災害対策にも熱心であった。しかし、災害対策は、単一の防災施設としてよりも、日常の都市生活の中で、あるいは都市空間として、多面的な利用を行うことが一般的であった。例えば、「御府内備考」には御曲輪内に番町火除地1か所、麹町火除地5か所、神田火除地8か所の明地原が記されている。この明地原は、武家町では大的場や騎射馬場などの武士の訓練用であったり、植木屋の拝借地であったりした、町人には、明地原はごみ捨て場であったり、子どもの遊び場であった。

明地は、特定の施設ではなく、都市生活の場を提供していたが、会所地、河岸端、突抜、広小路、火除地、波除地など利用のあり方による名称が付与され、幕府は常に公共的な場として市政の対象とした。私的には屋敷の中にも、繁華街の中心部にも、人々が群がり集まるところ、生活するところに明地が設けられた。

廃棄物処理も、江戸時代中期以降、明地が重要な場となった.廃棄物処理は3段階に区分され、第1段は明地に、第2段は公儀指定の塵芥船が立寄る積荷場、第3段が埋立造成地とされた。第2段の積荷場も大部分は明地であった。

江戸の下水道は、「下水」と「表の溝」に分けて考えていた。下水は、大下水、小下水で下水網を整え、これを堀や川に排出した·下水は低地を流れ、上水は高地を流れる.したがって、下水と上水が交差する地点も現れた.日本橋南の樋町·大工町の御堀端通りでは、上水をこえる立体交差のための戸樋4間半、枡1か所の跨大下水が設けられた。また、神田上水白堀(素堀)には、箱形であったことから箱下水と呼ばれた渡下水が建造された·こうした下水網に対して、1648年(慶安元)の御触書では、いたるところでごみの浚揚げを滞らぬようにすることを訴え、また下水へごみを少しでも入れないようにすることを求めている。

一方、表の溝は、屋敷主や町に委ねられ、その設置を命じた、都市計画上は、一町単位に同一規模で設置させたところが多い.表の溝は、大下水、小下水を経て排出されたが、町界、屋敷界などを表わすことにもなった。

城下町の下肥は、河川や堀への排出を禁止する法令がたびたび発令されたように、川岸の厠(江戸では雪隠と称した)や下水を経て処理されていた。しかし、江戸のように人口集中が激しかった城下町周辺では、近郊野菜の需要が高まった。また大坂の綿作などの換金作物を対象とした畑地が続出した.こうした畑地は、水田よりはるかに肥料を必要とした.干鰯とともに下肥の需要が急増し、下肥は廃棄物ではなく商品化した.廁には、複数の壺を設けて溜めておくことが一般的となり、汲取場所の獲得争いまで生じた·ついには、下肥処理に入札制度が普及した.

1657年(明暦3)の江戸大火(振袖火事)は、江戸市街地の大半を焦土と化した·死者10万8000人余といわれるこの大火後、江戸の市街地は大規模な市区改正を行った.用途変更の区画整理も進展し、江戸の町は2倍にふくれる大変革をなした。こうして、明暦の大火は、防災都市の形成、新しい都市政策の出発点となった。江戸の災害は、近代に至るまで、江戸·東京を拡大しつづけてきた。そして、大災害を機に下水、道路、橋、明地、並木などの新しい規定が続々と制定されてきた.